東京都練馬区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 練馬区高松2-3-15先 宮田橋敷石供養塔(平成3年度 練馬区登録文化財) 敷石供養塔は文化4年(1807)、清戸道を利用する大勢の人びとが寄進した敷石の完成記念と交通安全を祈願して建立された供養塔です。 むかし、この付近(元宮田橋)は石神井川沿いの湿地で、野菜や肥料などの運搬に難渋していました。彫られた地名には区内はもちろん、埼玉県の村名もみられます。いかに広範囲にわたる地域の人びとがここを通行し、この時の敷石完成を喜んだかをうかがうことができます。 高松の庚申塔(平成4年度 練馬区登録文化財) 庚申塔は正徳5年(1715)上練馬村高松の人びと26人によって造立されたものです。主尊は六臂の青面金剛で、力強く天邪鬼を踏まえ、下には「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿が彫られています。 庚申信仰は平安時代に中国から渡来したといわれ、江戸時代には富貴長命を願い、庶民の間でも盛んになりました。この塔は区内に現存する百三十余基の庚申塔の中で一番大きいものです。 平成21年(2009)3月 練馬区教育委員会 所在地 練馬区高松3-19 御嶽神社 当社の祭神は国常立尊・大己貴命・少彦名尊の三神で、木曽御嶽神社の分霊を勧請したものです。 新たな道が開けて木曽御嶽山への登拝が容易になったのは、天明(1781~)の頃からといいます。その後、江戸を中心に御嶽講をまとめ、信仰を広めたのは一山行者です。その一山行者を講祖に祭る一山社が境内にあります。また明治11年(1878)当社を創いた小沢林蔵君碑、及び氏を初代とする一山講先達の碑もあります。 むかし、ここから約150メートル北、富士街道沿いに高松寺という真言宗の寺がありました。明治初年廃寺となり、墓地は愛染院に合併され、本尊の薬師如来はその時当地に移されました。御嶽神社・薬師如来記念碑は神仏分離後のものとして珍しいものです。 鳥居脇の石仁王二体は宝永3年(1706)伊賀忍者の頭領服部半蔵が高松寺へ寄進したものです。背面に半蔵の銘が見えます。伊賀衆は、幕末まで橋戸村(現在の大泉町)を領地としていました。当地は江戸屋敷(四谷伊賀町)と領地橋戸村との往還にあたっていました。 昭和60年(1985)3月 練馬区教育委員会 境内には『服部半蔵奉納の仁王像』があります。 |
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永山
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