東京都練馬区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 練馬区羽沢2-2 放光王地蔵尊由来 当、「放光王地蔵尊」は、俗に羽沢三佛の内に数ある一名「北向き地蔵さま」とも言われ、昔は練馬と板橋を堺に街道の辻に当り道行く人の目印ともなり永い間地域の人々に親しまれてきました。その建立については、確たるものは見当たりませんが地蔵信仰の暦文からして2百数十年前、平安後期から鎌倉時代に建立されたものだと察します。現在の設立は、昭和4年(1929)9月お彼岸に鈴木忠八郎翁を代表に有志43名程にて寄付されてものです。そもそも地蔵菩薩とは「クシティガルバ」の意訳で、ダイア地の母胎という意味。閻魔大王の化身ともされ、別名「妙幢菩薩」とも呼ばれる。お釈迦様が無くなってから56億7千万年後に救済者弥勅菩薩が出世するまでの間、無仏の世界にあって地獄・飢餓・畜生・阿修羅・人・天の六道に輪廻して苦しむ人々をあの世とこの世の境である六道の入口に 立ち、衆生を教化し救うという菩薩です。放光王地蔵尊は、人道を説く地蔵尊とされております。お姿は僧形が多く右手に鍚杖か与願印をとり左手に宝珠を持ち、ご礼拝供養のご真言は「おん かかか びさんまえい そわか」と繰り返すほど、そのご利益は増し安産・健康・長寿・知恵・豊作・救財などのご利益があり、病気にかからない・水の難、火の難に遭わない・苦しみに通じるところが滅びるなどの28種の功徳を得られるでしょう。この羽沢の「北向き地蔵さま」は童子のお姿で地域の人々に親しまれご利益を与えてくださることで有名です。 平成17年(2005)12月吉日 寄贈 鈴木將三 PR 所在地 練馬区高野台1-16 当社は、社伝によると、江戸時代初期の創建といわれます。 『新編式武蔵風土記稿』には「村ノ鎮守ナリ、長命寺ノ持」とあります。長命寺はここから南西約100メートルにある真言宗の名刹で、江戸時代は当社の別当寺でした。祭神は須佐之男命です。 明治時代の神仏分離や最近尾道路拡幅工事などで、幾度が移転改築が行われましたが、棟札によると本殿は天保6年(1835)、社殿・拝殿は嘉永5年(1852)に建築されました。 境内に皇大神宮(祭神天照大御神)、八幡神社(祭神応神天皇)、春日神社(祭神天児屋根命)の三社があります。この三社は『新編指揮武蔵風土記稿』谷原村長命寺の頃に「三社宮 大神宮・八幡・春日三神ヲ安ス」とある神社です。江戸時代は長命寺の境内にありましたが、神仏分離後に当地へ移されました。ほかに稲荷神社があります。 拝殿内には江戸時代からの大絵馬10数枚が奉納されています。 石造物は文政12年(1829)の御手洗石や、ほかに灯籠・狛犬・各種記念碑など数多くあります。 平成22年(2010)3月 練馬区教育委員会
所在地 練馬区高野台3-10-3 (長命寺)
十三佛の功徳 十三佛は室町時代から庶民信仰と深い因縁があり、初七日不動、二七日釈迦、三七日文殊、四七日普賢、五七日地蔵、六七日弥勒、七七日薬師、百ヶ日観音、一周忌努至、三回忌阿弥陀、七回忌阿閃、十三回忌大日、三十三回忌虚空蔵とそれぞれ各諸佛諸菩薩が配され、又は生れ年によって各一の守り本尊に當てられているなど、徳性の秀れた佛様である。 昭和62年(1987)6月吉日 沙門 亮弘誌 不動明王 釈迦如来 文殊菩薩 普賢菩薩 地蔵菩薩 弥勒菩薩 薬師如来 観音菩薩 勢至菩薩 阿弥陀如来 阿閃如来 大日如来 虚空蔵菩薩 所在地 練馬区大泉町5-15-5 大泉氷川神社 当社の創立年月日は定かでありませんが、武蔵国一の宮氷川神社への崇敬の念から勧請したもので、明治維新におよび、村民はここを当村(橋戸村)の鎮守と定め、明治7年(1874)に村社となりました。 祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)で、相殿に愛宕神社{祭神・香具槌命(かぐつちのみこと)、火産霊命(ほむすびのみこと)}、境内社に稲荷神社、白山神社、弁天社、御嶽神社があります。 明治13年(1880)社殿の改築が行われましたが、社殿の老朽化に伴い、昭和50年(1975)にいたり鉄筋コンクリート造り、銅板葺・流造に改築されました。 稲荷神社は江戸時代、橋戸村に所領をもっていた伊賀組衆の守護神として祀られていましたが、明治維新後、村民に下げ渡されました。もと村内愛宕社にあったといいます。 稲荷神社の鳥居右手に嘉永2年(1849)伊賀組衆108名が奉納した御手洗石があります。それには、天正18年(1590)徳川家康の入府に従って、江戸周辺に給地を賜った伊賀衆の由緒が漢文で刻まれています。同時に奉納した石鳥居は破損して境内に保存されています。 境内にはそのほか昭和7年(1932)市域合併記念の石灯籠や荘民由緒碑があります。 当社は南に白子川を望む丘陵に位置し、四季を通じて深い緑につつまれています。 昭和61年(1986)3月 練馬区教育委員会 所在地 練馬区大泉町5-15-5 (大泉氷川神社) 嘉永2年(1849)銘。東京外環大泉インターチェンジ付近にあった愛宕神社脇の稲荷社のもの伝えられる。水盤側面に伊賀衆が水盤、鳥居を奉納した経緯などが刻まれ、鳥居と合わせて108人の氏名が刻まれている。 平成15年(2003)3月 練馬区教育委員会 所在地 練馬区春日町3-2-10 御祭神 天児屋根の大神 末社 稲荷神社、三峰神社、第六天神社 恵比寿大黒神、道祖神 菅原道真公命 例大祭 9月15日前後の土・日曜日 春日神社の創建は藤原鎌足の末裔祐宗翁と伝えられ後、文明元年(1469)練馬城主豊島泰経・豊島泰明厚く崇敬し後、界隈唯一の崇敬厚き古社であります。 所在地 練馬区春日町3-2 寿福寺は大林山最勝院といい、真言宗豊山派です。本尊は薬師如来で、豊島八十八か所第19番札所でもあります。開創は詳らかではありませんが『新編武蔵風土記稿』に「開山秀信、万治2年(1659)12月寂ス」とあり、寺の記録にも慶安2年(1649)の記述があることから、それ以前の創建であることが分かります。 明治26年(1893)、失火により全焼しましたが、本尊の薬師如来は幸い焼失を免れました。明治43年(1910)本堂と堂内のほとんどを再建しましたが、まだ不十分な状態でした。そのため、本尊薬師如来の御影を厨子に入れて背負い、近郷近在に喜捨を願って巡行したので、人びとは「巡行薬師」と呼んで親しみ敬いました。集まった浄財で仏具等を整備してお堂が完成しました。現在の本堂は、昭和4年(1929)に改築されたものです。 境内の十羅刹女神社は、古くは隣地の春日神社に祀られていましたが、明治時代の廃仏棄釈でここに遷らされました。 延宝3年(1675)の庚申塔は青面金剛像の刻まれる塔としては区内最古のものです。また、江戸時代後期に上練馬村で家塾を開いていた河野鎮平(天保6年〔1835〕没)の筆子碑は、区の登録文化財です。 寺宝には、平安時代の絵師として有名な巨勢金岡筆と伝えられる六字名号の軸物があります。 平成21年(2009)3月 練馬区教育委員会 境内には『河野鎮平筆子塚』があります。 所在地 練馬区春日町3-15-9 (ラディッシュメゾン) 練馬大根栽培之地の碑 練馬大根は、大正から昭和のはじめごろまで、練馬春日町をはじめ、練馬一帯で生産は最盛期でありました。 練馬大根栽培の先駆者、鹿嶋又六が練馬大根栽培をはじめてから、約300年の歴史をもつ練馬の特産物「練馬大根」は、昭和30年代に、都市化や病害などのため、農家の自家用を除いて完全に姿を消しました。 平成元年から、練馬区は「練馬大根育成事業」として、農家に依頼して、年間6000本生産するようになりました。 練馬大根が生産されなくなっても、幻の大根と言われても、我々の祖先の人達が、体を張って研究を重ね継承してきた、練馬の誇り練馬大根と、この地が練馬大根の生産地であったことを、なんとかして次世代に伝承するため、2000年を迎えることを契機として「練馬大根栽培之地」の碑を建立しました。 鹿島家7代目の鹿島萬嗣は、8人の子宝に恵まれ地域社会の発展と街づくりを使命に、野菜づくりと、練馬大根づくりに一生を捧げることを理想としていました。晩年、練馬農協総会会場の議長席にて倒れて、この世を去りました。 こころざしなかばで逝った、父の遺志をくみ、後世に伝えようとする共通の願いを、子供達が碑に刻み、一人ひとりが沢庵漬に使用していた重石を持ち寄り、8個の石で護りながら地域の発展と文化のまち「ふるさとねりま」を誇りために建立したものです。 鹿島信一 鹿島正治 鹿島清子 岡田とみ 鹿島文子 浅見静子 池田敏子 武井和子 平成11年(1999)12月吉日 所在地 練馬区春日町4-16 鹿島安太郎翁顕彰碑 鹿島安太郎先生は明治16年(1883)3月2日東京都練馬区春日町の農家に生まる 青年の頃より農事に対する研究心旺盛所以謂「考える農民」であった 常に農業振興の重要性を力説し地域農業の進展に尽力され就中練馬大根の品種改良と栽培及び加工技術の改善を図り之が普及に献身的努力をされ更に馬鈴薯栽培の改善など地域の農家経済を有利に導かれた功績は極めて大きい 戦後特産練馬大根も環境の悪化により作柄不振加えて食生活の洋風化に伴い需要の低下するに及び逸早くこの動向を察知して之が轉換作として甘藍及び洋菜類の導入を普及に盡力されたのである 今や當区は都内随一の甘藍産地となっているがこれ偏に先生の鋭い先見の明の賜である この間数多くの農業団体の要職にあって盡きところのない情熱を農業の改良と普及はもとより後輩の育成指導にも意を注ぎ練馬農業の先覚者として農民の心の程であった 先生は温厚篤實終始一貫生涯を農業一筋に捧げ心より王を愛し王とともに生きてこられたこの精神こそまことに崇高である先生の数限りない労苦と功績が認められ昭和33年(1958)11月3日黄綬褒章受章の栄誉を受けらる 近年都市の膨張により都内園芸地帯の耕地は蚕食され営農環境は悪化の一途を辿り今後農園芸の進路には極めてきびしいものがあるとき先生には82歳を一期として永遠の眠りにつかれた 昭和40年(1965)4月4日先生の多年に亘る偉大なる功績に対し特旨をもって従六位勲六等に叙せられ軍光旭日章を授与せられたのである 茲に先生の御遺徳を讃え輝かしい足跡を後世に傳えるため御功績の一端を記す 昭和41年(1966)4月23日 鹿島安太郎翁顕彰記念碑 建立発起人総代 加藤源蔵 所在地 練馬区春日町4-16 練馬大根の碑 練馬といえば大根、大根といえば練馬といわれるほど、練馬の名は、大根によって、人々に親しまれてきました。 練馬大根のはじまりについては、将軍徳川綱吉が尾張(愛知県)から種子をとりよせ、百姓大木金兵衛に作らせたとか、上練馬村の百姓又六が作り出したとかの、話が伝えられています。 江戸の発展、さらに東京都なって、大量の大根が作られるようになりました。練馬大根の沢庵漬けは、特産として全国的に有名になりました。これを記念して昭和16年(1941)4月に建てられたのが、この大根碑です。 練馬大根の品種改良と普及育成に生涯をささげた鹿島安太郎翁の顕彰碑も、これと並んで昭和40年(1965)4月に建てられました。 この奥の練月山愛染院は、真言宗の寺です。江戸時代に寺領二十石を与えられました。境内の、沢庵石を磁石とした鐘楼には、元禄14年(1701)鋳造の梵鐘が残されています。 平成2年(1990)10月 練馬区教育委員会 所在地 練馬区春日町4-17-1 愛染院 愛染院は、練月山愛染院観音寺といい、真言宗豊山派(豊島88ヶ所第26番札所)の寺院で、本尊は愛染明王です。 縁起によると永享9年(1437)能円房尊岳が尾崎の地(現在の春日小学校付近)に開いた寺で、寛永年間(1624~1644)に権大僧都尊智によって現在地に移され、中興したといわれます。 江戸時代には十二石余の朱印地がありました。慶安2年(1649)の徳川家光朱印状をはじめとして、徳川将軍家が愛染院の寺領と同寺管理の若宮八幡(現八幡神社・高松)の社領八石を安堵した朱印状が残されています。 また寛政年間(1789~1801)の火災により、元禄10年(1697)の山門と元禄14年(1701)の梵鐘を残して建造物はことごとく焼失したといいます。 明治の廃仏棄釈の際、末寺の成就院(向山)・高松寺(高松)・養福寺・泉蔵院(田柄)の4ヶ寺を当寺に合併しました。境内には、高松寺合併について記した明治25年(1892)の宝篋院塔があります。この他、弘法大師座像(木像)などの仏像が所蔵されており、境内には、西山稲荷祠や六地蔵(元文4年〔1739〕)をはじめ弘法大師1千年供養塔、敷石供養碑など数多くの石造物があります。 昭和55年(1980)11月、3年の歳月を費やし本堂・大師堂・表書院・鐘楼・稲荷社・山門など諸堂伽藍が完成し、入仏落慶法要が盛大に挙行されました。 ◆練馬区指定・登録有形文化財 「愛染院の梵鐘」平成18年(2006)2月登録 「愛染院文書」平成20年(2008)1月登録 平成22年(2010)1月指定 平成22年(2010)3月 練馬区教育委員会 西山稲荷大明神 所在地 練馬区春日町4-17-1 (愛染院) 練馬区登録有形文化財 愛染院の梵鐘 平成18年(2006)2月登録 元禄14年(1701)銘、作者は木村将監安継です。区内では古い部類の梵鐘です。 平成18年(2006)3月 練馬区教育委員会 所在地 練馬区春日町5-35 圓淨法師塚(耳塚) この塚は耳塚と呼ばれ、次のような伝説が伝わっています。 むかし、上練馬村字中の宮(春日町5丁目)に信仰心のあつい老婆がいました。老婆は生きていくのが嫌になり、村人たちに頼んで桶に入れて埋めてもらい、鉦をたたきながら往生しました。それからしばらくして、不思議なことに耳の悪い人が竹筒に耳をあてたり、花立てにたまった水で耳を洗うと耳の病気がよくなりました。このことが近在に知れわたり、多くの人がお参りするようになりました。 現在は「円浄法師之位」と記した明治44年(1911)の石碑が建っています。 平成9年(1997)7月 練馬区教育委員会 所在地 練馬区春日町 ふじ大山道 ふじ大山道は道者街道、富士街道ともよばれています。それは阿夫利山ともいわれた大山へ、また大山から富士山への道者が通ったからです。北町1丁目で川越街道から分かれて、石神井、田無を経て伊勢原(神奈川県)に達していました。練馬の中央部をほぼ東から西南に横断して区内では約8キロメートルに及んでいます。そしてその分岐点には、「従是大山道」と刻んだ道しるべが建てられたのです。 旧暦の6月は、俗に祭月とよばれているように、江戸や関東の各地では、祭礼がさかんに行われました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山は開き」とあるように、6月28日が初山で、それから7月14日まで、連日、関東の村々から集まった人々でにぎわいました。その白衣の道者たちが通ったのがこの街道です。 昭和58年(1983)3月 練馬区教育委員会 所在地 練馬区高松2-3-15先 宮田橋敷石供養塔(平成3年度 練馬区登録文化財) 敷石供養塔は文化4年(1807)、清戸道を利用する大勢の人びとが寄進した敷石の完成記念と交通安全を祈願して建立された供養塔です。 むかし、この付近(元宮田橋)は石神井川沿いの湿地で、野菜や肥料などの運搬に難渋していました。彫られた地名には区内はもちろん、埼玉県の村名もみられます。いかに広範囲にわたる地域の人びとがここを通行し、この時の敷石完成を喜んだかをうかがうことができます。 高松の庚申塔(平成4年度 練馬区登録文化財) 庚申塔は正徳5年(1715)上練馬村高松の人びと26人によって造立されたものです。主尊は六臂の青面金剛で、力強く天邪鬼を踏まえ、下には「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿が彫られています。 庚申信仰は平安時代に中国から渡来したといわれ、江戸時代には富貴長命を願い、庶民の間でも盛んになりました。この塔は区内に現存する百三十余基の庚申塔の中で一番大きいものです。 平成21年(2009)3月 練馬区教育委員会
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