東京都練馬区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 練馬区北町2-18 阿弥陀堂と千川家墓所 この阿弥陀堂は、『新編武蔵風土寄稿』に「阿弥陀堂ニ 一ハ金乗院持、 一ハ清性寺持ニテ弥陀ハ春日ノ作ナリ」とあるうちの後者に当たります。清性寺は明治に廃寺となり、金乗院と合併しました。本堂の釣鐘は文政3年(1820)のものですが、銘文に「神明山清性寺持阿弥陀堂」と記されています。 墓地には千川家累代の墓があります。千川家は千川上水開設の功労者として知られています。 千川上水は元禄9年(1696)、江戸下町方面の飲料水として玉川上水から分水された水道で、工事には徳兵衛・太兵衛の二人が当たりました。私費を投じて工事を完成させた功績により、両人は幕府から名字帯刀を許され、千川家の姓を賜りました。 開通から10年後の宝永4年(1707)、上水は附近20か村の農民の願いで、灌漑用水として利用できるようになりました。両人の子孫は代々下練馬村(現在の北町)に住み、千川上水の取締役として維持管理に努めました。 この墓所には初代徳兵衛から数えて3代目の源蔵以下4代善蔵、5代仙輔、6代民蔵、7代右保などの墓が建っています。 平成21年(2009)3月 練馬区教育委員会 PR 所在地 練馬区北町1-14 (田柄川緑道) 徳川綱吉御殿跡之碑 この付近一帯はかつて「御殿」と呼ばれた土地であった。 後に江戸幕府第5代将軍となる徳川綱吉が寛文年間(17世紀後半)にこの地を鷹場とし、宿泊所として「鷹狩御殿」を建てたことに由来する。 江戸幕府四百年を記念して之を建つ 平成15年(2003)11月吉日 練馬区 所在地 練馬区北町1-25先 下練馬の大山道道標(平成5年〔1993〕度・練馬区指定文化財) 旧川越街道と富士大山道の分岐点に宝暦3年(1753)8月、下練馬村講中によって建てられた道標です。上部の不動明王像は後に制作されたものです。 江戸時代に盛んであった富士・大山信仰に関する資料として貴重なものです。 平成20年(2006)6月 練馬区教育委員会 東高野山道標 「左東高野山道」と刻まれた角柱は、高野台3丁目の長命寺への道しるべです。長命寺派紀伊の高野山を模して伽藍を整え、山号を東高野山と称しています。 この二つの道標は、環状8号線の工事により元の位置から8メートルほど西側に移動し、現在の場所に設置されたものです。 移転前は、相模の大山への道しるべとして、また東高野山への道しるべとして江戸方面から来る人々のため、東南東の向きに置かれていました。現在は見学しやすいよう向きを変えています。 平成20年(2008)6月 練馬区教育委員会 所在地 練馬区北町 旧川越街道 この道は、戦国時代の太田道灌が川越城と江戸城を築いたころ、二つの城を結ぶ重要な役割を果たす道でした。 江戸城には中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えました。日本橋から川越城下まで「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とうたわれ、川越藷の宣伝にも一役かいました。 下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村ヘ二十六丁、下白子村ヘ一里十丁、道幅五間、南ヘ折ルレバ相州大山ヘノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、真ん中を中宿とよびました。 上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂への道が分かれています。 通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継の問屋場などがありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました。 浅間神社の富士山、大山不動尊の道標、石観音の石造物に昔の街道の面影を偲ぶことができます。 平成6年(1994)3月 練馬区教育委員会 所在地 練馬区北町2-38 北町の仁王像 練馬区登録有形文化財 平成11年(1999)1月登録 向って右、阿形像、左、吽形像。重厚な造りの像で、両像の背には「天和3年(1683)・・・奉立之施主光岳宗智・・・」の銘があり、聖観音座像建立の翌年に建てられたことが分かります。 平成11年(1999)3月 練馬区教育委員会 敷地内には『北町観音堂(石観音堂)』、『北町聖観音座像』があります。 所在地 練馬区北町2-38 北町聖観音座像 練馬区指定有形民俗文化財 平成8年(1996)2月指定 高さ270センチメートル、宮内最大の石仏。背には「武州河越多賀町隔夜浅草光岳宗智月参所 奉新造正観音為四恩報謝也 旹(時)天和2年(1682)8月・・・」、台座には川越街道沿いの29の地名が刻まれています。 平成11年(1999)3月 練馬区教育委員会 敷地内には『北町の仁王像』、『北町観音堂(石観音堂)』があります。 |
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