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東京都練馬区の歴史
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所在地 練馬区春日町3-2-10 

御祭神 天児屋根の大神

末社 稲荷神社、三峰神社、第六天神社
恵比寿大黒神、道祖神

菅原道真公命

例大祭 9月15日前後の土・日曜日




 春日神社の創建は藤原鎌足の末裔祐宗翁と伝えられ後、文明元年(1469)練馬城主豊島泰経・豊島泰明厚く崇敬し後、界隈唯一の崇敬厚き古社であります。

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所在地 練馬区春日町3-2 (寿福寺)

練馬区登録史跡
 河野鎮平筆子塚

 江戸時代にこの附近で家塾を開いていたと伝えられる河野鎮平(賢堂・天保6年〔1835〕没)を偲んで、百人を超える教え子たちが立てた石碑。
 平成15年(2003)3月 練馬区教育委員会



所在地 練馬区春日町3-2

 寿福寺は大林山最勝院といい、真言宗豊山派です。本尊は薬師如来で、豊島八十八か所第19番札所でもあります。開創は詳らかではありませんが『新編武蔵風土記稿』に「開山秀信、万治2年(1659)12月寂ス」とあり、寺の記録にも慶安2年(1649)の記述があることから、それ以前の創建であることが分かります。
 明治26年(1893)、失火により全焼しましたが、本尊の薬師如来は幸い焼失を免れました。明治43年(1910)本堂と堂内のほとんどを再建しましたが、まだ不十分な状態でした。そのため、本尊薬師如来の御影を厨子に入れて背負い、近郷近在に喜捨を願って巡行したので、人びとは「巡行薬師」と呼んで親しみ敬いました。集まった浄財で仏具等を整備してお堂が完成しました。現在の本堂は、昭和4年(1929)に改築されたものです。
 境内の十羅刹女神社は、古くは隣地の春日神社に祀られていましたが、明治時代の廃仏棄釈でここに遷らされました。



 延宝3年(1675)の庚申塔は青面金剛像の刻まれる塔としては区内最古のものです。また、江戸時代後期に上練馬村で家塾を開いていた河野鎮平(天保6年〔1835〕没)の筆子碑は、区の登録文化財です。
 寺宝には、平安時代の絵師として有名な巨勢金岡筆と伝えられる六字名号の軸物があります。
 平成21年(2009)3月 練馬区教育委員会

 境内には『河野鎮平筆子塚』があります。


所在地 練馬区春日町3-15-9 (ラディッシュメゾン) 

  練馬大根栽培之地の碑
 練馬大根は、大正から昭和のはじめごろまで、練馬春日町をはじめ、練馬一帯で生産は最盛期でありました。
 練馬大根栽培の先駆者、鹿嶋又六が練馬大根栽培をはじめてから、約300年の歴史をもつ練馬の特産物「練馬大根」は、昭和30年代に、都市化や病害などのため、農家の自家用を除いて完全に姿を消しました。
 平成元年から、練馬区は「練馬大根育成事業」として、農家に依頼して、年間6000本生産するようになりました。
 練馬大根が生産されなくなっても、幻の大根と言われても、我々の祖先の人達が、体を張って研究を重ね継承してきた、練馬の誇り練馬大根と、この地が練馬大根の生産地であったことを、なんとかして次世代に伝承するため、2000年を迎えることを契機として「練馬大根栽培之地」の碑を建立しました。
 鹿島家7代目の鹿島萬嗣は、8人の子宝に恵まれ地域社会の発展と街づくりを使命に、野菜づくりと、練馬大根づくりに一生を捧げることを理想としていました。晩年、練馬農協総会会場の議長席にて倒れて、この世を去りました。
 こころざしなかばで逝った、父の遺志をくみ、後世に伝えようとする共通の願いを、子供達が碑に刻み、一人ひとりが沢庵漬に使用していた重石を持ち寄り、8個の石で護りながら地域の発展と文化のまち「ふるさとねりま」を誇りために建立したものです。
鹿島信一 鹿島正治 鹿島清子 岡田とみ 鹿島文子 浅見静子 池田敏子 武井和子
 平成11年(1999)12月吉日 



所在地 練馬区春日町4-16

  鹿島安太郎翁顕彰碑
鹿島安太郎先生は明治16年(1883)3月2日東京都練馬区春日町の農家に生まる 青年の頃より農事に対する研究心旺盛所以謂「考える農民」であった 常に農業振興の重要性を力説し地域農業の進展に尽力され就中練馬大根の品種改良と栽培及び加工技術の改善を図り之が普及に献身的努力をされ更に馬鈴薯栽培の改善など地域の農家経済を有利に導かれた功績は極めて大きい 戦後特産練馬大根も環境の悪化により作柄不振加えて食生活の洋風化に伴い需要の低下するに及び逸早くこの動向を察知して之が轉換作として甘藍及び洋菜類の導入を普及に盡力されたのである 今や當区は都内随一の甘藍産地となっているがこれ偏に先生の鋭い先見の明の賜である この間数多くの農業団体の要職にあって盡きところのない情熱を農業の改良と普及はもとより後輩の育成指導にも意を注ぎ練馬農業の先覚者として農民の心の程であった 先生は温厚篤實終始一貫生涯を農業一筋に捧げ心より王を愛し王とともに生きてこられたこの精神こそまことに崇高である先生の数限りない労苦と功績が認められ昭和33年(1958)11月3日黄綬褒章受章の栄誉を受けらる 近年都市の膨張により都内園芸地帯の耕地は蚕食され営農環境は悪化の一途を辿り今後農園芸の進路には極めてきびしいものがあるとき先生には82歳を一期として永遠の眠りにつかれた
昭和40年(1965)4月4日先生の多年に亘る偉大なる功績に対し特旨をもって従六位勲六等に叙せられ軍光旭日章を授与せられたのである
茲に先生の御遺徳を讃え輝かしい足跡を後世に傳えるため御功績の一端を記す
 昭和41年(1966)4月23日
 鹿島安太郎翁顕彰記念碑 建立発起人総代 加藤源蔵



所在地 練馬区春日町4-16

練馬大根の碑
 練馬といえば大根、大根といえば練馬といわれるほど、練馬の名は、大根によって、人々に親しまれてきました。
 練馬大根のはじまりについては、将軍徳川綱吉が尾張(愛知県)から種子をとりよせ、百姓大木金兵衛に作らせたとか、上練馬村の百姓又六が作り出したとかの、話が伝えられています。
 江戸の発展、さらに東京都なって、大量の大根が作られるようになりました。練馬大根の沢庵漬けは、特産として全国的に有名になりました。これを記念して昭和16年(1941)4月に建てられたのが、この大根碑です。
 練馬大根の品種改良と普及育成に生涯をささげた鹿島安太郎翁の顕彰碑も、これと並んで昭和40年(1965)4月に建てられました。
 この奥の練月山愛染院は、真言宗の寺です。江戸時代に寺領二十石を与えられました。境内の、沢庵石を磁石とした鐘楼には、元禄14年(1701)鋳造の梵鐘が残されています。
 平成2年(1990)10月 練馬区教育委員会




所在地 練馬区春日町4-17-1

  愛染院
 愛染院は、練月山愛染院観音寺といい、真言宗豊山派(豊島88ヶ所第26番札所)の寺院で、本尊は愛染明王です。
 縁起によると永享9年(1437)能円房尊岳が尾崎の地(現在の春日小学校付近)に開いた寺で、寛永年間(1624~1644)に権大僧都尊智によって現在地に移され、中興したといわれます。



 江戸時代には十二石余の朱印地がありました。慶安2年(1649)の徳川家光朱印状をはじめとして、徳川将軍家が愛染院の寺領と同寺管理の若宮八幡(現八幡神社・高松)の社領八石を安堵した朱印状が残されています。
 また寛政年間(1789~1801)の火災により、元禄10年(1697)の山門と元禄14年(1701)の梵鐘を残して建造物はことごとく焼失したといいます。
 明治の廃仏棄釈の際、末寺の成就院(向山)・高松寺(高松)・養福寺・泉蔵院(田柄)の4ヶ寺を当寺に合併しました。境内には、高松寺合併について記した明治25年(1892)の宝篋院塔があります。この他、弘法大師座像(木像)などの仏像が所蔵されており、境内には、西山稲荷祠や六地蔵(元文4年〔1739〕)をはじめ弘法大師1千年供養塔、敷石供養碑など数多くの石造物があります。
 昭和55年(1980)11月、3年の歳月を費やし本堂・大師堂・表書院・鐘楼・稲荷社・山門など諸堂伽藍が完成し、入仏落慶法要が盛大に挙行されました。



◆練馬区指定・登録有形文化財
愛染院の梵鐘」平成18年(2006)2月登録
「愛染院文書」平成20年(2008)1月登録 平成22年(2010)1月指定
  平成22年(2010)3月 練馬区教育委員会


                                      西山稲荷大明神


所在地 練馬区春日町4-17-1 (愛染院)

練馬区登録有形文化財
 愛染院の梵鐘
     平成18年(2006)2月登録

元禄14年(1701)銘、作者は木村将監安継です。区内では古い部類の梵鐘です。 
 平成18年(2006)3月 練馬区教育委員会



所在地 練馬区春日町5-35

圓淨法師塚(耳塚)

 この塚は耳塚と呼ばれ、次のような伝説が伝わっています。
 むかし、上練馬村字中の宮(春日町5丁目)に信仰心のあつい老婆がいました。老婆は生きていくのが嫌になり、村人たちに頼んで桶に入れて埋めてもらい、鉦をたたきながら往生しました。それからしばらくして、不思議なことに耳の悪い人が竹筒に耳をあてたり、花立てにたまった水で耳を洗うと耳の病気がよくなりました。このことが近在に知れわたり、多くの人がお参りするようになりました。
 現在は「円浄法師之位」と記した明治44年(1911)の石碑が建っています。
 平成9年(1997)7月 練馬区教育委員会




所在地 練馬区春日町

  ふじ大山道
 ふじ大山道は道者街道、富士街道ともよばれています。それは阿夫利山ともいわれた大山へ、また大山から富士山への道者が通ったからです。北町1丁目で川越街道から分かれて、石神井、田無を経て伊勢原(神奈川県)に達していました。練馬の中央部をほぼ東から西南に横断して区内では約8キロメートルに及んでいます。そしてその分岐点には、「従是大山道」と刻んだ道しるべが建てられたのです。
 旧暦の6月は、俗に祭月とよばれているように、江戸や関東の各地では、祭礼がさかんに行われました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山は開き」とあるように、6月28日が初山で、それから7月14日まで、連日、関東の村々から集まった人々でにぎわいました。その白衣の道者たちが通ったのがこの街道です。
 昭和58年(1983)3月 練馬区教育委員会



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