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東京都練馬区の歴史
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所在地 練馬区練馬1-44-10

時宗
 慈光山 阿弥陀寺



 寺伝によると正平・文和の頃(1355年頃)、遊行八代渡船上人巡化の頃から時衆集団が生まれた。また江戸時代頃より時宗・品川長徳寺の境外仏堂(説教所)としてこの付近に信徒を集めていたことは記録によって明らかにされています。
 本尊は阿弥陀如来(木造)で、明治の廃仏毀釈の際、近くの白山神社に祀られていた観音菩薩(青銅製)を脇侍仏としました。
 また、寺宝として弘安3年(1280)銘の弥陀一尊板碑が保存されております。この板碑は区内で二番目に古いものです。
 境内には享保14年(1729)の銘のある地蔵尊が安置されており、日を限って祈願すると願い事がかなえられるということから「ひぎり地蔵」と呼ばれています。眼病の治癒に霊験があるといわれ、現在もなお進行が盛んです。
 昭和57年(1982)3月 練馬区教育委員会


所在地 練馬区練馬4-2

  練馬白山神社





 境内には『練馬白山神社の大ケヤキ』があります。

 

                                     下段の大ケヤキ

所在地 練馬区練馬4-2 (練馬白山神社)

国指定天然記念物
練馬区登録天然記念物
 練馬白山神社の大ケヤキ

 白山神社は、練馬宿の氏神で伊邪那美命をまつり、平安時代に建てられたと伝えられています。
 社の境内の大欅は、現在は2本になってしまいましたが、いい伝えによると永保3年(1083)に、源義家が奥州征伐に下る時、この社に戦勝を祈願して、奉納した苗の一部であると伝えられています。
 1本は目通り10メートルほど、今1本は7メートル余りあり、高さはともに、25メートルぐらいで、樹齢7、800年を経ているといわれます(林学博士 本多静六氏の鑑定)。昭和15年(1940)には天然記念物として国の指定を受けました。
 なおこの付近から、弘安4年(1281)などの板碑が多く発掘されていることによって、鎌倉時代には、この神社の周辺に、集落が発達していたことが考えられます。
 平成元年(1989)3月 練馬区教育委員会


                                           下段の大ケヤキ

 石段上のケヤキと同じく、源義家が奉納したと伝えられる由緒があることから指定されました。
 樹の高さ 19m  幹の周囲の長さ 8m



                         上段の大ケヤキ

天然記念物指定時の大きさは「目通三丈五尺三寸」(10.7m)根廻六丈八尺六寸(20.8m)高さ八十尺(24.2m)」の巨木でした。古木で根元に大きなコブのある独特の風格を有し、源義家が奉納したと伝えられています。
 樹の高さ 14m  幹の周囲の長さ 7.2m


 
                                      上段の大ケヤキ


所在地 練馬区練馬4

  田島山十一ヶ寺
 
十一ヶ寺とは、仁寿院迎接院本性院得生院九品院林宗院称名院
受用院、假宿院(仮宿院)、宗周院快楽院の十一寺院の俗称で、もとは誓願寺(浄土宗、現在は府中市の多磨霊園正門近くにある)の塔頭寺院でした。
 誓願寺は江戸時代初めに小田原から江戸神田に移り、さらに明暦3年(1657)の振袖火事後、浅草田島町に移転しました。この頃は幕府から朱印三百石を与えられ、檀家には豪商も多く十六院もの塔頭寺院を持つ大きな寺でした。明治以降、各塔頭寺院は本坊の誓願寺から独立し、大正12年(1923)の関東大震災後に十一の塔頭寺院がここに移転しました。
 墓地には、本草学者として名高い小野蘭山や、書道家として篆刻の名人として有名な池永道雲の墓をはじめ、札差として権勢を誇った青地善春一族あるいは名優のきこえ高い初代沢村宗十郎らの名墓があります。
 平成9年(1997)3月 練馬区教育委員会




仁寿院
 仁寿院墓地内には『千葉周作墓』があります。

迎接院
 迎接院墓地内には『小野蘭山墓』があります。

本性院

得生院

九品院
 九品院境内には『蕎麦喰地蔵』があります。

快楽院

宗周院

仮宿院

受用院
 受用院墓地内には『池永道雲墓』、『澤村宗十郎(初代)墓』、『澤村宗十郎(3代)墓(沢村田之助)』、『澤村宗十郎(5代)墓』、『澤村宗十郎(7代)墓』、『澤村宗十郎(8代)墓』があります。

称名院

林宗院
 林宗院墓地内には『岡部覚弥墓』、『土屋安親墓』、『岸本由豆流墓』があります。

 


所在地 練馬区練馬4-25-9 (田島山十一ヶ寺)


 仁寿院墓地内には『千葉周作墓』があります。


所在地 練馬区練馬4-26-17  (田島山十一ヶ寺)


  
  受用院


 受用院墓地内には『池永道雲墓』、『澤村宗十郎(初代)墓』、『澤村宗十郎(3代)墓(沢村田之助)』、『澤村宗十郎(5代)墓』、『澤村宗十郎(7代)墓』、『澤村宗十郎(8代)墓』があります。


所在地 練馬区練馬4-27 (田島山十一ヶ寺迎接院墓地

東京都指定有形文化財
     昭和4年(1992)5月指定
練馬区登録有形文化財
     平成元年(1989)3月登録
 小野蘭山墓

 江戸時代中期の本草学者。本姓は佐伯氏、名は職博、字は以文、通称は喜内、号を蘭山または朽匏子という。享保14年(1729)京都に生まれた。延享元年(1744)松岡恕庵について本草学を学んだ。本草学は、中国で発達し、日本では江戸時代に最も盛んになった学問である。薬草をはじめとする薬物研究にとどまらず博物学の色彩が濃い。25歳のとき京都丸太町近くに学塾衆芳軒を開き本草学を講じた。寛政11年(1799)71歳のとき江戸に移り、幕府の医学館で本草学を講じた。また、幕命により享和元年(1801)から文化2年(1805)にかけて採薬のため諸国を巡り、それらの結果を採薬記に纏めている。享和3年(1803)に上梓された『本草綱目啓蒙』は、日本における最大の本草文献であり、後の博物学の発達にも大きな影響を与えた。また方言資料としても貴重である。文化7年(1810)正月27日82歳で没した。墓所は浅草誓願寺の塔頭迎接院にあったが、震災後の区画整理により改葬され現在地に移転した。
 平成21年(2009)3月 練馬区教育委員会



 小野家累代のお墓は 蘭山墓を残して 諸霊は浄土宗田島山誓願寺塔頭 迎接院の納骨堂へ合祀いたしました
 小野蘭山は 享保14年(1729)8月 京都に生まれ松岡恕庵に師事し本草学を修めました
宝暦3年(1753) 25歳の時私塾衆芳軒を開き 以後46年間本草を考究し 多くの医者や本草家を輩出しました

 寛政11年(1799)3月幕命に依り 71歳にして江戸に下り 神田佐久町の幕府医学館に於いて 本草学の講義を行い また数次に亘る採薬を行いました
 そして 享和3年(1803)には「本草綱目啓蒙ほんぞうこうもくけいもう」48巻の初版本を刊行致しました
その後は蘭山の孫職孝もとたか(蕙畝けいほ) その子職實もとみち(二代蕙畝けいほ) 及び職實の子 職愨もとよし(薫山くんざん)の3人の後継者を得て家学を究め我国の自然科学の礎となりました

小野蘭山は 文化7年(1810)正月 病を得て幕府医学館の官舎で82年の生涯を閉じました
 
 茲に 墓石を記念碑として保存すると共にその業績を永く顕彰致します

 平成18年(2006)3月 
 浄土宗 迎接院第十八世住職 藤木雅雄
       小野家第八代 小野強 


所在地 練馬区練馬4-27 (田島山十一ヶ寺受用院墓地) 

東京都指定旧跡
     昭和7年(1932)7月1日指定
練馬区登録史跡
     平成元年(1989)3月1日登録
 池永道雲墓



 池永道雲は、江戸時代中期の書家、篆刻家です。延宝2年(1674)に江戸の商家に生まれました。名は栄春、字を道雲といい、一峯、市隠、山雲水月主人などの号を称しました。清国の黄道謙の影響をうけて篆刻を学び『一刀萬象』三巻など多くの印譜を著し、わが国篆刻の始祖の1人とされています。著書は『篆海』『篆髄』『聯珠篆文』など十八種五十余巻に及びます。元文2年(1737)7月19日に64歳で死去しました。
 浅草誓願寺の塔頭受用院墓地に葬られましたが、関東大震災後の昭和2年(1927)現在地に移転しました。
 平成23年(2011)9月 練馬区教育委員会


所在地 練馬区練馬4-25-1 (田島山十一ヶ寺九品院

  延命蕎麦喰地蔵尊
 九品院に安置してある、将軍延命厄難滅除蕎麦喰地蔵尊は、後陽成天皇の代、文禄元年(1592)徳川家康、江戸城に拠り江戸市街の経営を着々と進めるに当り、庶民教化を第一として、行徳兼備の高僧を遍くもとめた。そして相模国小田原誓願寺の開山東誉齢祖上人、徳望高く庶人帰依する者多しと聞いて上人を招請する為に、大久保石見守を使者に差し向けた。大久保石見守はその途中小田原の某所を通過の節、地中から現われた地蔵尊を拝したので、東誉上人に面謁した後この事を告げた。上人も「之れまことに、奇瑞なり」と、其の開眼供養を施し、誓願寺境内に安置せられた。
 慶長元年(1596)関ヶ原の合戦の4年程前、誓願寺は小田原より江戸神田豊島町、今の須田町あたりに移され、石見守と縁故浅からぬ、塔中西慶院開基善誉俊也和尚が地蔵尊の別当(本官ある人の別に他の職に当るを云う)になった。それから帰依する者がふえ、武家の信仰も深く、よって将軍地蔵とも称せられた。
 其の後明暦3年(1657)正月18日振袖火事で知られる江戸の大火で市中の大半は焦土と化し、誓願寺は本寺末寺挙げて浅草田島町に移転した。浅草広小路尾張屋の話はこの時代のことで、天保年間(1830~1843)悪疫流行の時には門前市をなす程の盛況だったと云う。
 後の「おはなし」も一般に伝わり誰言うとなく、願をかける時或は願成就の折には、御礼として蕎麦を供養せよ、とこれに依って蕎麦喰地蔵尊の名が起り、江戸六地蔵の随一として著名になった。時代が推移し、明治の末年西慶院は隣寺九品院に合併され、大正12年(1923)9月1日の関東大震災にまた災上した。そして昭和4年(1929)、現在の練馬区練馬4丁目に移った。地蔵尊の堂宇は、大方有縁の信徒の浄財寄附を以て再建し、講中地蔵講を結んで維持し、永遠に茲に安置することとなった。



  おはなし
 「あゝ、美味しかった。御馳走さま
 お坊さんは何度も丁寧に礼を言うと、暖簾をくぐって出て行った。いや、いや・・・、こんなに夜遅くおしのびでお出なさるとは、よほど蕎麦の好きなお方と見えるわい。元々信心深い尾張屋の主人のことゆえ、お坊さんの所望に毎夜快くもてなしていた。だが待てよ・・・、闇の中に去って行くその後姿を見送りながら、もう一月になるかな、毎晩きまって四ッの鐘が鳴ると、それにしてもあの奥床しい容貌と言い、おだあかな物腰と言い、唯の方ではあるまい。一体何処の方であろうか。一つ明日聞いてみよう。
 翌日、主人はお坊さんにおずおずと尋ねてみた。
「不躾ながら、貴方様はどこのお寺でいらっしゃいますか」
 お坊さんはその問いを聞くと、はたと困ったような表情を浮かべ、只恥かしそうに顔を紅らめ答えようとはしない。主人の重ねての質問にやっと、
「田島町の寺・・・」
 と小声で言うと、あとそれ以上聞いて呉れるな、と言うような眼差しを遺して逃げるように立ち去った。どうも腑に落ちない。さては蕎麦好きの狐か狸が化けているのではないだろうか。よーし、今度きたら正体をつき止めてやろう、と店の者がいきまくのを主人は押えておいた。
 明くる日またお坊さんは、何事も無かったように蕎麦を食べ終えると、礼を述べて帰った。覚悟を決めた主人は、こっそりその跡をつけて行く。知ってか知らずか、お坊さんは深閑と静まりかえった夜道をゆっくり、ゆっくり歩いていった。袈裟衣の黒い影は、誓願寺の山門をくぐり、西慶院の境内に入って行く。あゝ、申し訳ない、矢張り本当のお坊さんだったのだ。何という申し訳ない事を、と山門の陰で両手を合わせてお坊さんの後姿を拝んでいた主人は、その時ハッと息をのんだ。お坊さんの姿が、地蔵堂の中にすうっと消えてしまったのだ。そして、御像にほのかな後光が射しているかに見えた。主人はへたへたとその場に坐り込み、暫くは茫然と御堂をみつめた儘であった。何処をどう走ったかもわからない。やっと家に辿りついた主人は、店の者がうるさく聞く声に耳のかさず「申し訳ない、勿体ない、お許し下さい・・・」と繰り返えすのみ。
 その夜、まだ興奮もさめぬまゝにうとうととまどろんでいると、枕元に厳かなお告げが聞えた。「われは西慶院地蔵である。日頃、汝から蕎麦の供養を受けまことに忝けない。その報いには、一家の諸難を退散し、特に悪疫から守って遣わそう」それ以来、主人は毎日西慶院の地蔵様に蕎麦を供え、祈願するのを怠らなかった。ある年、江戸に悪疫が流行して、死人が続出し野辺送りの列が絶えなかった。人々の哀しみをよそに、尾張屋一家はみな無事息災であった。


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