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東京都練馬区の歴史
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所在地 練馬区桜台6-32

  お浜井戸(氷川神社発祥の地)



  氷川神社の由来
古来口碑に御■■太■の長禄元年に渋川義鏡が足利■氏との戦に向かう途中 此処石■■■の急流に出会ふ淀む処に泉 輝々として湧出る
水■の井戸即ち御浜井戸と称す 暫く兵士を休めてその傍らに祠を建て須佐之男尊を祀り九月五日武運長久を祈る 此の流水を水田に用い一帯を良田となす 近郷の農家の崇敬の的となり親しまれた 後 海老名左近位するに及び観世音を安置せる観音山 即ち今の地に遷さる 霊験あらたか 五十一字の総鎮守となる 現今祈念祭に合せて毎年四月九日 祭神の御里帰りと称し 神社より此処之神輿渡佛が行われる 行列は■■旗を先頭に五色の吹流し 太鼓の響にのって氏子の久等の道中歌 此処に神輿を奉安し 氏子の舞で■■清め 子孫繁栄五穀豊穣を祈る雌雄二羽の鶴の舞が行われ その夜神社で田遊びの行事が行われる由緒ある処です
  昭和四十七年四月吉日

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所在地 練馬区早宮2-26-11

  本壽院(本寿院)
 当寺は久遠山本寿院といいます。日蓮宗のお寺で、本尊は久遠実成の本師釈迦牟尼仏です。
 寺伝によると、開山日宜上人が江戸時代の初期多くの信者の懇望に応じて一宇を建て、布教伝道に尽くしたのが当寺の起こりといわれています。
 二世日秀上人は、開山の法諱(院号)に因んで寺号を「本寿院」と称え、三世日意上人の代には身延山久遠寺(山梨県・日蓮宗の総本山)から特に「久遠山」の山号が与えられました。
 以来二十代約三百年の星霜を板橋(仲宿)で過ごしましたが、昭和12年(1937)中仙道の改修工事のため現在地に移転しました。
 昭和47年(1972)、宗祖の降誕750年記念として本堂を再建、昭和56年(1981)には宗祖の七百遠忌を記念し客殿の新築その他の整備が行われました。
 境内には報恩塔・大供養塔・記念碑等の石造物や「聖観世音菩薩青銅像」等多数あります。なかでも馬が法衣をまとって数珠を持つ僧形の馬頭観音石像は、小型ながたも全国的に珍しいもので、側面の銘文から文政6年(1823)に三河屋安次郎という人がかわいがっていた子馬の供養に建てたものと考えられます。
 ○本寿院のみくじ道具(平成11年度 練馬区指定文化財)
 ○僧形馬頭観音(平成5年度 練馬区登録文化財)
 ○本寿院の賽銭箱(平成9年度 練馬区登録文化財)
 平成21年(2009)3月 練馬区教育委員会



所在地 練馬区早宮3-41-1

練馬区指定天然記念物
 内田家の屋敷林



 屋敷林は、屋敷の四方を囲み立ち並ぶ樹高30メートル前後のケヤキと屋敷西側の雑木林からなります。かつての農家に見られた防風、日除けのための屋敷林と農用林としての雑木林の形態が保たれています。
 練馬区教育委員会



所在地 練馬区貫井5-7-3

 円光院は、南池山貫井寺といい、真言宗豊山派(豊島八十八ヶ所第十一番札所)のお寺で本尊は不動明王です。
 昔、寺の南に大きな池があったので「南池山」と号し、土地の名が貫井であるので「貫井寺」」と称したといいます。
 寺の伝えによると天正13年(1585)没した開山・円長法師は密法修行の折、にわかに腰脚痛を患い、あらゆる治療を施したが効果がなく、一念をこめて七日間の断食をして、武州大鱗山の子聖権現を遥拝し平癒を祈願しました。その満願の日の暁、霊夢により霊石を得て患部を撫でさすると、たちまち快癒したので、感きわまってここに堂舎を建て貫井寺と称し、その近くに子聖大権現を勧請して霊石と共に奉安しました。
 子聖権現は十二年に一度、子の年・子の月・子の日にご開帳され、また観音堂に安置された観世音菩薩は子、聖観世音と称し、馬の護り本尊として信仰を集め、毎年春に境内で「馬かけ」の行事が行われ賑いました。
 昭和20年(1945)5月戦災で本堂などを焼失、昭和38年(1963)再現が成り、昭和55年(1980)12月、観音堂並びに境外仏堂(地蔵堂)などが修復再建されました。
 昭和57年(1982)3月 練馬区教育委員会



 円光院境内には『子ノ聖観世音碑』があります。


所在地 練馬区貫井5-7-3 (円光院)

練馬区登録有形文化財
 子ノ聖観世音碑ねのしょうかんぜおんひ
     平成13年(2001)登録

  

 高さ1.75mの角柱型の石碑です。文化7年(1810)の銘があり、下部には明治13年(1880)の銘が陰刻されています。
 円光院の草創ともいわれる子権現が江戸時代には境外の祠に祀られ、信仰を集めていました。子ノ聖観世音碑は十一面観音ですが、近在の人々は馬頭観音としても信仰し、明治期には「馬かけ」行事も行われていました。
  練馬区


所在地 練馬区高松3-19

  御嶽神社
 当社の祭神は国常立尊・大己貴命・少彦名尊の三神で、木曽御嶽神社の分霊を勧請したものです。
 新たな道が開けて木曽御嶽山への登拝が容易になったのは、天明(1781~)の頃からといいます。その後、江戸を中心に御嶽講をまとめ、信仰を広めたのは一山行者です。その一山行者を講祖に祭る一山社が境内にあります。また明治11年(1878)当社を創いた小沢林蔵君碑、及び氏を初代とする一山講先達の碑もあります。



 むかし、ここから約150メートル北、富士街道沿いに高松寺という真言宗の寺がありました。明治初年廃寺となり、墓地は愛染院に合併され、本尊の薬師如来はその時当地に移されました。御嶽神社・薬師如来記念碑は神仏分離後のものとして珍しいものです。



 鳥居脇の石仁王二体は宝永3年(1706)伊賀忍者の頭領服部半蔵が高松寺へ寄進したものです。背面に半蔵の銘が見えます。伊賀衆は、幕末まで橋戸村(現在の大泉町)を領地としていました。当地は江戸屋敷(四谷伊賀町)と領地橋戸村との往還にあたっていました。
 昭和60年(1985)3月 練馬区教育委員会



 境内には『服部半蔵奉納の仁王像』があります。


所在地 練馬区高松3-19 (御嶽神社)

練馬区指定有形文化財
 服部半蔵奉納の仁王像


 宝永3年(1706)銘。伊賀衆の服部半蔵が、付近にあった高松寺(廃寺となっている)に寄進したものです。
 徳川家康より伊賀衆に橋戸村・白子村の一部(現在の大泉周辺地域)を給地されたことに関する資料としてばかりでなく、区内にある仁王像の中でも優れた出来映えの石造物です。
 平成4年(1992)3月 練馬区教育委員会


所在地 練馬区谷原1-17先

  谷原延命地蔵
 地蔵の台石正面には「念佛講中 武州豊嶌郡谷原村 二十人 惣村中 安永四未十月吉辰」(一部磨滅)と刻まれ、1775年に谷原村の念仏講中の人々によって立てられたことがわかります。蓮華座に載った丸彫立姿で、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ延命地蔵の普遍的な姿を示します。
 台石側面には「左 たなし道 大山道 二里」「右 はしど道」と刻まれ、道しるべとなっています。地蔵に向かって左側の道は「ふじ大山道」とも呼ばれ、川越街道の北町1丁目から分かれて練馬区のほぼ北東から南西を横切り、西東京市を経て、調布市で甲州街道に合流、多摩川を渡り、神奈川県の大山に通じていました。また、大山から御殿場、府中から甲州街道で大月、富士吉田を経て、富士山へ至る道でもありました。富士・大山振興の人々が旧暦6月の「山開き」から旧暦7月の「山しまい」まで、講印や神社印がついた白い行衣姿で、大山(阿夫利神社)や富士山(浅間神社)に登拝するため、この道を行き交いました。
 平成13年(2001)3月 練馬区教育委員会

 


所在地 練馬区谷原3-19-3

練馬区登録有形文化財
 増島家薬医門




 江戸時代末の建築と伝えられ、彫刻など古い様相を示しています。
 平成6年(1994)3月 練馬区教育委員会

 


所在地 練馬区中村3-11

  石幢七面六観音勢至道しるべ(良辨塚・良弁塚)

 良辨塚は、南北朝時代の僧侶で、ここから五百メートルほど東にある南蔵院の中興第一世です。良辨は、日本各地の霊場を巡拝し、数百部にのぼる法華経(妙法蓮華経)を書き写して奉納して廻りましたが、最後にたどり着いたこの中村の南蔵院に滞留し、周辺の人々を教化したと伝えられています。
 この塚は、碑文によると延文2年(1357)3月21日に建立されています。南蔵院は真言宗の寺院ですので、開祖である弘法大師(空海)が高野山で入定した承和2年(835)3月21日の月日に合わせて建てられたと考えられます。建立時に経筒(直径3センチ、高さ10センチで銅製の筒)が埋納され、江戸時代に塚を改修した後は南蔵院に保管されています。建立当時この場所は、鎌倉街道の1つに面しており、街道から南蔵院に入る角に経塚を築いて供養し、人々の幸せを願ったのでしょう。



 なお、『新編武蔵風土記稿』に良辨僧都を永正年間の人と記しているのは誤りです。また奈良時代に東大寺の大仏造立に尽力した別当良辨僧正とは別人です。
 敷地内にある庚申塔や道標などの石造物は、後にこの地に移されたものと考えられます。
 平成23年(2011)3月 練馬区教育委員会

 


所在地 練馬区田柄5-8

練馬区指定有形文化財
 相原家薬医門



 通称「南部の赤門」と呼ばれるこの門は、万延元年(1860)に再建されたものです。切妻破風造り、茅葺きの薬医門で、建築当初は木部全体に紅殻が塗られていました。江戸時代の建築様式が伝えられる貴重な建物です。
 相原家は奥州盛岡(岩手県盛岡市周辺)の大名であった南部侯とも関係があったと伝えられています。門の修理の際見つかった再建棟札には、相原家当主の源左衛門とともに南部藩御用人並びに御目付の目時隆之進の名が記されていました。また、土支田村明細帳、享保4年(1719)の古文書にも、南部侯の領地がこの付近にあったことが記されており、南部侯との関係が検証されます。
 平成13年(2001)3月 練馬区教育委員会

 


所在地 練馬区桜台6-20-19

臨済宗大徳寺派
 円満山 廣徳寺(広徳寺)



 北條氏政の子、岩槻(埼玉県)城主太田氏房が明叟和尚を小田原に招き、早雲寺の子院として開山したのが創建で、小田原城落城(1590)の際、焼失したと伝えられています。その後、徳川家康が二世希叟和尚を江戸神田に招き再興しました。寛永12年(1635)には下谷に移り、加賀前田家をはじめ諸大名を檀家とする江戸屈指の大寺院となりました。しかし、関東大震災で寺域は焼失し、その後の区画整理のため、大正14年(1925)からこの地に墓地を移し、別院としました。昭和46年(1971)には本坊も移し、平成2年(1990)の開山明叟和尚四百遠年諱を記念して、庫裡、位牌堂を建て替え、現在のたたずまいとなりました。



 墓地には、剣法の指南役として有名な柳生宗矩、三厳(十兵衛)父子の墓や将軍家茶道指南役で庭園築造にも事蹟のあった小堀遠州の墓(茶人らしい笠付棗形の墓石)があります。三厳と遠州は沢庵禅師を通じて禅にも深い理解がありました。



 その他、文禄・慶長の役で活躍した立花宗茂や、江戸時代の詩人菊池五山、菊池秋峯、大内熊耳など、大名、学者、文人の墓所が数多くあります。
 ここは禅の修行場でもあります。
  平成7年(1995)6月 練馬区教育委員会



練馬区登録有形文化財
 紙本着色以天宗清像しほんちゃくしょくいてんそうせいぞう
     平成3年(1991)登録

練馬区登録有形文化財
 絹本着色明叟宗普像 けんぽんちゃくしょくみょうそうそうふぞう
     平成3年(1991)登録

練馬区登録有形文化財
 紙本墨画淡彩希叟宗罕像しほんぼくがたんさいきそうそうかんぞう
     平成3年(1991)登録

練馬区登録有形文化財
 明叟宗普の墨跡 みょうそうそうふのぼくせき
     平成9年(1997)登録

練馬区登録有形文化財
 絹本着色釈迦十六善神像 けんぽんちゃくしょくしゃかじゅうろくぜんじんぞう
     平成11年(1999)登録




 


所在地 練馬区中村1-15-1

真言宗豊山派
 瑠璃光山 南蔵院 医王寺

本尊 薬師如来



 南蔵院の西北約500メートルにある良弁塚の石碑の文によれば、延文2年(1357)に良弁僧都が中興したと伝えられています。
 良弁については詳しくは分かっていませんが、全国を行脚し、各地の寺にお経を奉納した後、当地に永住したといわれています。
 境内には、古い建物や石造物などが多くあり、良弁塚から出土した経筒は寺宝として保存されています。また、府内八十八か所巡りの第十五番札所となっており、当院の格式が示されます。
 明治9年(1876)11月に本堂を使って豊玉小学校が設置され、この場所で小学校の教育が行われました。



 なお、次の練馬区指定文化財が所在しています。
 練馬区指定有形文化財
  鐘楼門 一棟 
  江戸時代中期の建築と考えられる区内唯一の鐘楼門

 平成元年(1989)3月 練馬区教育委員会


 
 境内には『鐘楼門』があります。


所在地 練馬区中村1-15-1 (南蔵院)

練馬区指定有形文化財
 鐘楼門



 江戸時代中期に建てられた区内唯一の鐘楼門で、正徳5年(1715)銘の梵鐘が吊られていました。当時の建築様式を伝えるものとして貴重です。
 練馬区教育委員会



 


所在地 練馬区中村南3-2-1

 この八幡神社は旧中村の村社で、祭神は応神天皇です。『新編武蔵風土記稿』に「村ノ鎮守ナリ、南蔵院持」とあります。南蔵院はここから東方約400メートルにある真言宗の古刹で、江戸時代は当社の別当寺でした。
 本殿は、社伝によると、江戸時代前半のものといわれ、練馬区内でも屈指の古建築物です。
 境内本殿向って左手にある文政13年(1830)奉納の御手洗石に卍の彫刻のあるのが目につきます。神仏混淆時代の名残をとどめる石造遺物として注目されます。記念碑のまわりには、むかし若者たちが力競べに興じた力石があります。なかには目方が彫ってあるものもあります。
 当社裏の一角に「首つぎ地蔵」があります。首と体と別々にあった地蔵尊が、信心深い二人のひとの夢枕に立った結果、首と体を継ぐことができたと言い伝えられています。その名にちなみ昭和初期の不況時代には「首切り」を免れようと、参詣者でにぎわったといいます。ここは廃寺となった南蔵院の末寺・西光寺の旧地にあたります。地蔵堂の前の石造物が僅かにその面影を残しています。
 昭和61年(1986)3月 練馬区教育委員会 



 境内には『本殿』、『水盤』があります。


所在地 練馬区中村南3-2-1 (八幡神社)

練馬区登録有形文化財
 八幡神社の水盤



 文政13年(1830)銘のある水盤です。正面に卍紋、向って左側面に奉納年、右側面に願主の氏名が刻まれています。背面に文字が刻まれていたようですが、風化のためか判読できません。練馬区に残る古い部類の水盤です。
 平成20年(2008)3月 練馬区教育委員会

 


所在地 練馬区中村南3-2-1 (八幡神社)

練馬区登録有形文化財
 八幡神社の本殿



 覆屋に納まっている小祠。一間社、流造り、こけら葺。八角柱で土台建。向拝や虹梁の彫刻は素朴で、外面全体は赤く塗られていた痕跡がある。区内では古い建築物で、17世紀頃の建築と推定される。
 平成11年(1999)3月 練馬区教育委員会


所在地 練馬区氷川台4-47-3

 氷川神社は、須佐之男命を祭神とする旧下練馬村の鎮守社です。
 社伝によれば、もとは石神井川近くの泉がわき出ていた「お浜井戸」のところにあったといわれ、長禄元年(1457)に渋川氏が足利氏との戦いに行く途中、武運長久を祈って立てたと伝えられています。この故事により、今では3年に1度となりましたが、かつては毎年4月9日の春祭の日に、神輿を「お浜井戸」まで、「お里帰り」する渡御行列が行われました。行列は、風祭、柄本、奥津、篠の四家が参列し、総代が先導となり、神職、幟、太鼓などと続き、お供の人々は、扇子を口にあて道中歌を歌いました。井戸に神輿が着き奉安すると、その前で「鶴の舞」が氏子二人によって演じられました。また、かつては、この日の晩に拝殿で古式を伝える「田遊び」が行われていました。



 なお、次の練馬区登録文化財が所在しています。
 練馬区登録有形文化財
  氷川神社の狛犬 一対 (拝殿前のもの)
   天明7年(1787)銘がある区内最古のもの
  角柱型水盤 一基 (稲荷社前のもの)
   延享4年(1747)銘がある区内唯一の角柱型水盤
 平成元年(1989)3月 練馬区教育委員会



 境内には『狛犬』、『角柱型水盤』があります。



所在地 練馬区氷川台4-47-3 (氷川神社)

練馬区登録有形文化財
 角柱型水盤 一基
 

 延享4年(1747)銘がある区内唯一の角柱型水盤

 


所在地 練馬区氷川台4-47-3 (氷川神社)

練馬区登録有形文化財
 氷川神社の狛犬(一対)
     平成元年(1989)3月1日登録

登録第二十二号  登録書
天明7年(1787)銘
石造 獅子型阿吽形対


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