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東京都練馬区の歴史
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所在地 練馬区練馬4-27 (田島山十一ヶ寺受用院墓地) 

東京都指定旧跡
     昭和7年(1932)7月1日指定
練馬区登録史跡
     平成元年(1989)3月1日登録
 池永道雲墓



 池永道雲は、江戸時代中期の書家、篆刻家です。延宝2年(1674)に江戸の商家に生まれました。名は栄春、字を道雲といい、一峯、市隠、山雲水月主人などの号を称しました。清国の黄道謙の影響をうけて篆刻を学び『一刀萬象』三巻など多くの印譜を著し、わが国篆刻の始祖の1人とされています。著書は『篆海』『篆髄』『聯珠篆文』など十八種五十余巻に及びます。元文2年(1737)7月19日に64歳で死去しました。
 浅草誓願寺の塔頭受用院墓地に葬られましたが、関東大震災後の昭和2年(1927)現在地に移転しました。
 平成23年(2011)9月 練馬区教育委員会
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所在地 練馬区練馬4-25-1 (田島山十一ヶ寺九品院

  延命蕎麦喰地蔵尊
 九品院に安置してある、将軍延命厄難滅除蕎麦喰地蔵尊は、後陽成天皇の代、文禄元年(1592)徳川家康、江戸城に拠り江戸市街の経営を着々と進めるに当り、庶民教化を第一として、行徳兼備の高僧を遍くもとめた。そして相模国小田原誓願寺の開山東誉齢祖上人、徳望高く庶人帰依する者多しと聞いて上人を招請する為に、大久保石見守を使者に差し向けた。大久保石見守はその途中小田原の某所を通過の節、地中から現われた地蔵尊を拝したので、東誉上人に面謁した後この事を告げた。上人も「之れまことに、奇瑞なり」と、其の開眼供養を施し、誓願寺境内に安置せられた。
 慶長元年(1596)関ヶ原の合戦の4年程前、誓願寺は小田原より江戸神田豊島町、今の須田町あたりに移され、石見守と縁故浅からぬ、塔中西慶院開基善誉俊也和尚が地蔵尊の別当(本官ある人の別に他の職に当るを云う)になった。それから帰依する者がふえ、武家の信仰も深く、よって将軍地蔵とも称せられた。
 其の後明暦3年(1657)正月18日振袖火事で知られる江戸の大火で市中の大半は焦土と化し、誓願寺は本寺末寺挙げて浅草田島町に移転した。浅草広小路尾張屋の話はこの時代のことで、天保年間(1830~1843)悪疫流行の時には門前市をなす程の盛況だったと云う。
 後の「おはなし」も一般に伝わり誰言うとなく、願をかける時或は願成就の折には、御礼として蕎麦を供養せよ、とこれに依って蕎麦喰地蔵尊の名が起り、江戸六地蔵の随一として著名になった。時代が推移し、明治の末年西慶院は隣寺九品院に合併され、大正12年(1923)9月1日の関東大震災にまた災上した。そして昭和4年(1929)、現在の練馬区練馬4丁目に移った。地蔵尊の堂宇は、大方有縁の信徒の浄財寄附を以て再建し、講中地蔵講を結んで維持し、永遠に茲に安置することとなった。



  おはなし
 「あゝ、美味しかった。御馳走さま
 お坊さんは何度も丁寧に礼を言うと、暖簾をくぐって出て行った。いや、いや・・・、こんなに夜遅くおしのびでお出なさるとは、よほど蕎麦の好きなお方と見えるわい。元々信心深い尾張屋の主人のことゆえ、お坊さんの所望に毎夜快くもてなしていた。だが待てよ・・・、闇の中に去って行くその後姿を見送りながら、もう一月になるかな、毎晩きまって四ッの鐘が鳴ると、それにしてもあの奥床しい容貌と言い、おだあかな物腰と言い、唯の方ではあるまい。一体何処の方であろうか。一つ明日聞いてみよう。
 翌日、主人はお坊さんにおずおずと尋ねてみた。
「不躾ながら、貴方様はどこのお寺でいらっしゃいますか」
 お坊さんはその問いを聞くと、はたと困ったような表情を浮かべ、只恥かしそうに顔を紅らめ答えようとはしない。主人の重ねての質問にやっと、
「田島町の寺・・・」
 と小声で言うと、あとそれ以上聞いて呉れるな、と言うような眼差しを遺して逃げるように立ち去った。どうも腑に落ちない。さては蕎麦好きの狐か狸が化けているのではないだろうか。よーし、今度きたら正体をつき止めてやろう、と店の者がいきまくのを主人は押えておいた。
 明くる日またお坊さんは、何事も無かったように蕎麦を食べ終えると、礼を述べて帰った。覚悟を決めた主人は、こっそりその跡をつけて行く。知ってか知らずか、お坊さんは深閑と静まりかえった夜道をゆっくり、ゆっくり歩いていった。袈裟衣の黒い影は、誓願寺の山門をくぐり、西慶院の境内に入って行く。あゝ、申し訳ない、矢張り本当のお坊さんだったのだ。何という申し訳ない事を、と山門の陰で両手を合わせてお坊さんの後姿を拝んでいた主人は、その時ハッと息をのんだ。お坊さんの姿が、地蔵堂の中にすうっと消えてしまったのだ。そして、御像にほのかな後光が射しているかに見えた。主人はへたへたとその場に坐り込み、暫くは茫然と御堂をみつめた儘であった。何処をどう走ったかもわからない。やっと家に辿りついた主人は、店の者がうるさく聞く声に耳のかさず「申し訳ない、勿体ない、お許し下さい・・・」と繰り返えすのみ。
 その夜、まだ興奮もさめぬまゝにうとうととまどろんでいると、枕元に厳かなお告げが聞えた。「われは西慶院地蔵である。日頃、汝から蕎麦の供養を受けまことに忝けない。その報いには、一家の諸難を退散し、特に悪疫から守って遣わそう」それ以来、主人は毎日西慶院の地蔵様に蕎麦を供え、祈願するのを怠らなかった。ある年、江戸に悪疫が流行して、死人が続出し野辺送りの列が絶えなかった。人々の哀しみをよそに、尾張屋一家はみな無事息災であった。


所在地 練馬区豊玉南2-15-5

 氷川神社は旧中新井村(現在の豊玉地区)の鎮守で、祭神は素盞鳴命です。境内末社に北野・須賀・稲荷・三峯の各社があります。



 社伝によると、主神は北野神社が最も古く、次いで須賀神社、その後、大宮一宮の分霊を勧請して氷川神社を主神にしたといいます。すでに江戸時代の『新編武蔵風土記稿』には、「氷川社」の記載があります。



 境内南西側の旧神楽殿は、元氷川神社の拝殿で、文化8年(1811)の棟札があります。この建物は釘を一切使わない、組込式の建築技法を用いています。



 古い土地の人は、須賀神社を「天王さま」と呼びます。天王様の祭礼は、昔は旧暦6月15日でしたが、この祭には文化10年(1813)作と伝える神輿の渡御があります。田んぼの中を暴れ廻るというので「中新井天王さまの暴れ神輿」と近郷・近在で有名でした。今も9月の祭礼には変わらぬ姿で、往時を偲ばせます。
 昭和59年(1984)3月 練馬区教育委員会


                                          須賀神社

 境内には『力石』、『ビール麦・金子ゴールデン発祥の地碑』、『神輿』があります。



                                           神楽殿


所在地 練馬区豊玉南2-15-5 (氷川神社)

     ビール麦・金子ゴールデン発祥の地碑
 ビール麦「金子ゴールデン」は明治33年(1900)、篤農家金子丑五郎によって東京市北豊島郡中新井村の当地で育成されました。翁は、江戸末期の文久元年(1861)10月20日に生れ、優れた先見性と旺盛な研究心、地道な努力を積み重ね、米麦をはじめ野菜の品種改良にも情熱を傾け、近郷農家の経営安定に大きく貢献しました。特に国産ビールの需要拡大を予見し、輸入品種と国産種の自然荒廃から「金子ゴールデン」を選抜・育成しました。つくりやすい性質から当地では「矢羽」の愛称で、昭和25年(1950)頃まで盛んに生産されていました。翁が改良した種子は、貴重な遺伝資源として「独立行政法人 農業生物資源研究所ジーンバンク」に永久保存されています。
 練馬区豊玉が生んだ翁の功績を地域文化として伝承し、都市農業の振興のため、平成15年(2003)翁を慕う農民等が相集い、栽培の復活に取り組みました。努力の甲斐あって、多くの人々が喜びを共有して国産ビール黎明期の味を楽しんだことを、翁の功績と共に後世に伝えるため、碑を建立します。
 平成18年(2006)10月吉日 金子ゴールデン記念碑建立実行委員会

 

     ビール麦の金子ゴールデン
 わが国のビール麦栽培は外国から導入された品種によって始められました。
 最初に導入されたのは江戸時代末期といわれていますが、本格的に導入されたのは明治に入ってからで、政府が勧業の一策として諸外国から穀類の種子を導入し、試作を進めました。
 当時、輸入された中には大麦も多く、明治20年(1887)にはゴールデンメロン(米国)の名が記録されています。
 北豊島郡中新井村(現在の練馬区豊玉)の金子丑五郎が明治33年(1900)、六条大麦の四国とゴールデンメロンの自然交雑によって生じた雑種の中から「金子ゴールデン」を育成しました。
 早生で草丈が低いため成熟しても倒れにくく、一時、関東一円に栽培が広がりました。この品種を親にエビス1号、ニューゴールデン、アズマゴールデン、ふじ二条等の優良品種が育成され、初期のわが国のビール醸造に大きく貢献しました。
 平成9年度JA東京グループ
 農業共同組合法施行50周年記念事業
 東京あおば農業協同組合

    THE AGRICULTURE OF EDO &TOKYO
             Malt barley,Kaneko Golden
 Cultivation of malt barley in Japan started with varieties introduced from foreign countries.The active introduction was made since 1868 associated with the government policies of industry promotion in which various seeds of cereals were importanted and tested for use.
 In 1900,Ushigoro Kneko of Toyotama,Nerima ward bred Kneko Golden from the natural hybrids between six-rowed barley Shikoku and Golden Melon.It was a superior type of early ripening,short stem and hardy to toppling at the stage of maturity.Its cultivation at one time extended throughout Tokyo district and contributed greatly toward the beer brewery in Japan.


所在地 練馬区豊玉南2-15-5 (氷川神社)

練馬区登録文化財
 氷川神社の神輿
     平成19年(2007)登録

 氷川神社境内社の須賀神社に伝わる神輿です。修理・後補がなされているため、制作年代は不明ですが、飾り収納箱の蓋の裏側に「文化10年(1813)葵酉六月吉日、中荒井村惣村中」の墨書があり、江戸時代までさかのぼる可能性があります。総高は176cm、轅を除く最大幅は119cmで方形造りです。
 現在は、祭礼の際に拝殿内に置かれるのみですが、昭和30年代までは担がれていました。
 平成9年度 練馬区登録文化財
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所在地 練馬区豊玉南2-15-5 (氷川神社)

練馬区有形民俗文化財
 氷川神社の力石

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 ここに並ぶ8個の楕円形をした自然意思は、江戸時代後期から明治時代にかけて、関東地方で盛んにおこなわれた若者の「力だめし」に使われた力石です。
 力石には重量や村名などが刻まれ、特に五十五メ(貫)と刻まれた力石は、区内でも多き部類のものです。
 平成5年(1993)3月 練馬区教育委員会


所在地 練馬区田柄~北町~平和台~早宮~氷川台~桜台~羽沢~豊玉上~旭丘

 埼玉道は、清戸道(千川通り)を江古田駅の南、二又で北西へ分かれて、埼玉県戸田市方面に至る道です。二又は下練馬・上板橋・中荒いの三か村の村境でした。
 二又から西部池袋線の踏切を越えると間もなく庚申塔があります。明和2年(1765)羽根沢の人たちが造立したものです。さらに環七通りを過ぎ、開進第三小学校脇を北へ進むと正久保橋に出ます。新道は橋を渡り北西へ真直ぐ伸びていますが、旧道は東へ迂回して光伝寺脇へ出ます。光伝寺には昔の正久保橋の親柱が保存されており、石橋を架けて村人の労苦を救った僧教海の功績を今に伝えています。
 道は旧下練馬村の鎮守氷川神社の北を回り、再び新道に出ます。途中右手に宝永2年(1705)の庚申塔や正徳3年(1713)の地蔵菩薩像が見えます。
 新道は開進第一小学校の南で旧下練馬道と交叉し、さらに直進して丸久保で大山街道と交わります。傍らに道しるべを兼ねた馬頭観音が建っており「高田二里 ぞうし賀や二里」と彫ってあります。これまでの道を逆に辿ると高田・雑司ヶ谷へ着き、別名高田道と言って雑司ヶ谷鬼子母神への信仰の道でもありました。
 埼玉道は、旧上・下練馬村の境(北町と田柄の境)を北へのぼり、川越街道を渡って下赤塚から荒川早瀬の渡しへ出ます。渡しを越すと埼玉県です。埼玉道と呼ばれるゆえんです。
 平成20年(2008)3月 練馬区教育委員会

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所在地 練馬区氷川台・羽沢・板橋区

 東京都立 城北中央公園



 城北中央公園には『栗原遺跡の竪穴住居跡』があります。


所在地 練馬区氷川台1-7 (城北中央公園)

 栗原遺跡の竪穴住居跡
 栗原遺跡は、昭和30年(1955)に立教学院総合運動場造成の際、発掘調査された遺跡で、このあたりの旧小字名「栗原」を遺跡名としたものです。
 昭和30年(1955)から昭和31年(1956)にかけての調査では、赤土(関東ローム層)の中から、黒曜石製の打製石器が出土し、今から1万年以上前の旧石器時代から、この地で人々が生活していたことがわかりました。また、縄文土器が出土すると共に、弥生~平安時代の竪穴住居跡が発見されています。このあたりは、石神井川と田柄川に挟まれた台地であり、日当たりもよく、生活に欠かせない水の得やすい土地であったため、長い間、人々が生活してたことが偲ばれます。
 復元された住居跡は、八世紀初め頃(奈良時代初め)のもので、昭和32年(1957)東京大学教授、藤島亥治郎博士の設計により建てられたものです。発掘された竪穴住居跡は、地表から約50センチメートルの深さに掘られ、北側に粘土のかまどが築かれていました。柱穴は4箇所あり、復元の際には、径約21センチメートルのケヤキ丸太を主柱にし、梁・桁にスギ丸太を用い、カヤを葺いて復元しています。
 この復元住居跡は、奈良の都の華やかさにくらべ、当時の地方農民の暮しぶりがどんなものであったかを語りかけてくれます。
 現在は、東京都が用地と復元した竪穴住居を管理しています。
 平成22年(2010)3月 練馬区教育委員会















所在地 練馬区北町2-18

 阿弥陀堂と千川家墓所
 この阿弥陀堂は、『新編武蔵風土寄稿』に「阿弥陀堂ニ 一ハ金乗院持、 一ハ清性寺持ニテ弥陀ハ春日ノ作ナリ」とあるうちの後者に当たります。清性寺は明治に廃寺となり、金乗院と合併しました。本堂の釣鐘は文政3年(1820)のものですが、銘文に「神明山清性寺持阿弥陀堂」と記されています。
 墓地には千川家累代の墓があります。千川家は千川上水開設の功労者として知られています。
 千川上水は元禄9年(1696)、江戸下町方面の飲料水として玉川上水から分水された水道で、工事には徳兵衛・太兵衛の二人が当たりました。私費を投じて工事を完成させた功績により、両人は幕府から名字帯刀を許され、千川家の姓を賜りました。
 開通から10年後の宝永4年(1707)、上水は附近20か村の農民の願いで、灌漑用水として利用できるようになりました。両人の子孫は代々下練馬村(現在の北町)に住み、千川上水の取締役として維持管理に努めました。
 この墓所には初代徳兵衛から数えて3代目の源蔵以下4代善蔵、5代仙輔、6代民蔵、7代右保などの墓が建っています。
 平成21年(2009)3月 練馬区教育委員会





 


所在地 練馬区錦

 下練馬道
 この道は、旧下練馬村の今神・本村・重現・早淵など、村のほぼ中央を北東から南西へ走る幹線道の一つでした。
 旧川越街道を板橋区上板橋1丁目(旧上板橋村字七軒家)付近でわかれ、練馬区に入ります。錦の金乗院を迂回して、須賀神社から開進第一小学校の南側を通り、中之橋で石神井川を渡ります。そこからはさらに練馬城址の東側(豊島園駅西側)を通って清戸道と交叉し、中村の良弁塚前から鷺宮福蔵院方面へも通じています。
 下練馬村には北端を川越街道が、南端中新井村との境を清戸道が通り、両道を大きく結ぶ位置に富士大山道があります。富士大山道は名前の示す通り、主に信仰の道でした。
 それに対し、この下練馬道は村の中心から近郷の村々へ通じる弁リア生活の道でした。
 昭和60年(1985)3月 練馬区教育委員会


所在地 練馬区北町1-14 (田柄川緑道)

 徳川綱吉御殿跡之碑
 この付近一帯はかつて「御殿」と呼ばれた土地であった。
後に江戸幕府第5代将軍となる徳川綱吉が寛文年間(17世紀後半)にこの地を鷹場とし、宿泊所として「鷹狩御殿」を建てたことに由来する。
  江戸幕府四百年を記念して之を建つ
 平成15年(2003)11月吉日  練馬区


所在地 練馬区北町1-25先

 下練馬の大山道道標(平成5年〔1993〕度・練馬区指定文化財)
 旧川越街道と富士大山道の分岐点に宝暦3年(1753)8月、下練馬村講中によって建てられた道標です。上部の不動明王像は後に制作されたものです。
 江戸時代に盛んであった富士・大山信仰に関する資料として貴重なものです。
 平成20年(2006)6月 練馬区教育委員会



 東高野山道標
 「左東高野山道」と刻まれた角柱は、高野台3丁目の長命寺への道しるべです。長命寺派紀伊の高野山を模して伽藍を整え、山号を東高野山と称しています。
 この二つの道標は、環状8号線の工事により元の位置から8メートルほど西側に移動し、現在の場所に設置されたものです。
 移転前は、相模の大山への道しるべとして、また東高野山への道しるべとして江戸方面から来る人々のため、東南東の向きに置かれていました。現在は見学しやすいよう向きを変えています。
 平成20年(2008)6月 練馬区教育委員会















所在地 練馬区北町2-41

 浅間神社 
御祭神  木之花開耶姫命
 境内社  天祖神社  大日要貴命
        神明社    大日要貴命
當社は明治先代に上駅地に築かれたと伝えられ、徳川5代将軍綱吉の頃には時を掲げての祭典もあり、又古く此の地は宿場街として大変な賑わいを見たところで、爾来冨士浅間神社の霊山として厚く崇敬され今日に及んでいる。
なお、山は明治の前に第一回、明治5年(1872)6月に第二回の築造がなされ、街内の発展に伴い、昭和2年(1927)6月第三回の築造により現今の様態を呈するに至った。







 浅間神社には『下練馬の富士塚』があります。


所在地 練馬区北町2-41 (浅間神社)

 下練馬の富士塚 練馬区指定有形民俗文化財
  平成6年(1994)3月15日指定 練馬区教育委員会

 


所在地 練馬区北町

 旧川越街道
 この道は、戦国時代の太田道灌が川越城と江戸城を築いたころ、二つの城を結ぶ重要な役割を果たす道でした。
 江戸城には中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えました。日本橋から川越城下まで「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とうたわれ、川越藷の宣伝にも一役かいました。
 下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村ヘ二十六丁、下白子村ヘ一里十丁、道幅五間、南ヘ折ルレバ相州大山ヘノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、真ん中を中宿とよびました。
 上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂への道が分かれています。
 通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継の問屋場などがありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました。
 浅間神社の富士山、大山不動尊の道標、石観音の石造物に昔の街道の面影を偲ぶことができます。
 平成6年(1994)3月 練馬区教育委員会


所在地 練馬区錦1-19-25

真言宗豊山派 
 慧日山 円明院(圓明院) 西光寺

 豊島八十八ヶ所霊場27番札所



山号   慧日山 圓明院 西光院
本尊   不動明王
開基   賢栄阿闍梨 文亀元年(1501~1502)
宗派   真言宗豊山派
総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬
祖師   宗祖   弘法大師(空海)
      中興祖  興教大師(覚鑁)
      派祖   専誉僧正 
開宗  真言宗は、その源を遠くインドに発し、平安時代初期弘法大師が中国(当時の唐)におもむいて、これをもたらされ、日本で開宗されました。
教え  遍く、広く、ものの存在を肯定する曼荼羅思想や、すべての人にやどる仏性の光明を見つめる即身成仏をもとに、世のため人のためにお報いしようという「四恩酬答」の教えが基本です。
札所  弘法大師・豊島八十八ヶ所霊場第二十七番
霊場  四国八十八ヶ所お砂踏霊場
お経  般若理趣経・光明真言のほか、仏教音楽とわれる声明(節のついたお経)などです。



 円明院は、慧日山円明院西光寺といい真言宗豊山派の寺院です。豊島八十八ヶ所の第二十七番札所で、本尊は不動明王です。
 開基と伝えられる賢栄阿闍梨の名を刻んだ文亀2年(1502)の板碑があります。また、弁財天座像を線刻した文亀元年(1501)のみごとな板碑があります。この板碑は、大正4年(1915)に寺の裏山の土窟から偶然発見されたもので、造立当時は田柄川の清流が門前を流れる風景が美しく、水との関係のある弁財天を信仰したものと思われます。村人たちはこれを懇ろに供養し、穴守弁財天として祀りました。毎月3日、21日の縁日には多くの参詣人で賑わったといいます。
 参道には「血の道地蔵」と刻んだ明治25年(1892)の地蔵菩薩立像があります。別名「いぼ地蔵」とも呼ばれ、この地蔵菩薩に祈るといぼがとれるといいます。また、墓地の中央億には延宝2年(1674)の石造の大日如来座像があります。舟形の石に童形をした法界定印を結ぶ胎蔵界大日如来が空・風・火・水・地の五輪塔2基に支えられる珍しいものです。
 この他に、寛政6年(1794)の彫刻に優れた三面八臂の馬頭観音座像などもあります。
 平成23年(2011)3月 練馬区教育委員会

 円明院には『関東大震災犠牲者慰霊碑』、『安藤姑洗子句碑』があります。

 




所在地 練馬区錦1-19-25 (円明院)

 関東大震災犠牲者慰霊碑
 大正12年(1923)に関東大震災が起こり、練馬駅北口付近にあった上毛モスリン株式会社練馬工場のレンガの建物は壊れました。この時に殉職した女性8名、男性1名の従業員の菩提を弔うために、上毛モスリン株式会社練馬工場従業員一同によって、大正13年(1924)に建立されました。
 正面に「大震災横死者吊魂碑」、背面に震災による工場倒壊の事実と犠牲者の氏名が刻まれ、関東大震災の被災状況を伝えています。
 平成19年(2007)3月 練馬区教育委員会









所在地 練馬区錦2-4-28

真言宗豊山派
 如意山 金乗院 万徳寺



 金乗院は、如意山金乗院万徳寺といい、真言宗豊山派の寺院で本尊は愛染明王です。豊島八十八ヶ所第三十二番札所。
 『新編武蔵風土寄稿』によると、開山僧は行栄、開基は木下大炊介とされ、寺の沿革によれば、僧行栄が文禄年間(1592~1596)に開いたと記れています。
 山門は3代将軍徳川家光使用の門と伝えられており、墓地には下練馬村名主であった内田家や木下家の墓があります。
 平成24年(2012)3月 練馬区教育委員会
 太子堂

 金乗院には『金乗院の一石六地蔵』、『金乗院の大イチョウ』、『金乗院御朱印状』があります。

所在地 練馬区錦2-4-28 (金乗院)

 金乗院の一石六地蔵 平成6年(1994)3月登録
 明暦2年(1656)の銘があり、舟形の石に地蔵菩薩立像六躯が浮き彫りされている月待供養塔です。
 平成24年(2012)3月 練馬区教育委員会



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