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東京都練馬区の歴史
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所在地 練馬区中村3-8

 中村の御岳神社は、幕末期に谷原村の増島大傳によって創建されたと伝えられます。大傳は、行者一山の門人としてすでに谷原村に一山講社を結び、御岳神社(富士見台3丁目稲荷神社)を興し、近隣への布教にも励んでいました。中村では字中内を中心に御岳山一山信衍講が結ばれ大傳を開山として、二代先達内田清心(初太郎)三代先達神田明照(市五郎)と続き現在に至り、奉齋神は天御中主神・高皇産神・神皇産神・天神地祇・国常立尊・大巳貴命・少彦名命です。
 現在の社殿は昭和52年(1977)に新築されました。本殿西側には稲荷社があり、初代大傳はこの祠で祈祷を行っていたといわれています。
 その他境内には御岳山一山講社の講祖一山霊神をはじめ当社先達たちの慰霊碑があります。また明治初年(1868)以降の古文書や絵馬が多数保存されています。
 昭和62年(1987)3月 練馬区教育委員会

 
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所在地 練馬区氷川台3-24-4

真言宗豊山派 
 大明山 無量院 光伝寺

豊島八十八ヶ所第十番札所

本尊 不動明王



 寺伝によると、寛文5年(1665)に第一世権大僧都安慶が没しているところから、それ以前の創建と思われます。
 第八世の教海は、正久保橋(氷川台駅東南・旧称 弥右衛兵門橋)が腐りやすい木橋であったため、天明3年(1783)、私財を投じて江戸の石工、六兵衛と八兵衛を呼び、石橋に造り替えさせました。この橋の親柱が境内に保存され、今も教海の功績を伝えています。
 開進第二小学校の前身、松山学校を開いた松山為次郎(明治29年〔1896〕没)の墓があります。
 所蔵している仏像の中には、鎌倉時代の懸仏の特色を備えた「十一面観音懸仏」、正徳4年(1714)、正徳5年(1715)ころに制作された「地蔵菩薩立像および閻魔十王像」、江戸時代に制作された「下練馬の三十三所観音菩薩像」などがあります。本堂の前には樹齢数百年、釣鐘状の樹形も見事な区内最大のコウヤマキが生育しています。
 ・練馬区登録天然記念物
  「光伝寺のコウヤマキ」 平成11年(1999)1月登録
 ・練馬区登録有形文化財
  「十一面観音懸仏
  「光伝寺の地蔵菩薩立像及び閻魔十王像」
  「下練馬の三十三所観音菩薩像」 平成20年(2008)1月登録
 平成20年(2008)3月 練馬区教育委員会



 境内には『コウヤマキ』、『大乗妙典供養塔・庚申塔・地蔵菩薩像』、『閻魔堂』、『十一面観音懸仏』があります。


                               六地蔵


所在地 練馬区氷川台3-24-4 (光伝寺)

コウヤマキとしては区内で最も大きく、樹形も美しく風格があることから指定されました。
 樹の高さ 14m   幹の周囲の長さ 2.4m

 


所在地 練馬区氷川台3-24-4 (光伝寺)

 大乗妙典供養塔(宝暦6年〔1756〕建立)
 庚申塔(宝永2年〔1705〕建立)
 地蔵菩薩像(正徳3年〔1713〕建立)

 この三体の石仏は、建立当時より白子道と、それに交叉する現在の北町に通じる村道の四ッ辻に安置されていた。昭和14年(1939)の区画整理により氷川台4-46-6、市川乃夫男氏宅地に編入された。多くの石仏が消えていくなかで、今日まで大切に守られて来たのは、付近の方々の信仰のおかげであった。しかし、地域の開発が進み、ここに講中が話し合い、光傳寺に移転、新たに供養を行い、その由来をしるす。
 平成5年(1930)3月吉日 旧北三軒有志一同


所在地 練馬区豊玉中2-28-6

  酒井工作所のタンデムローラー
このローラーは㈱酒井工作所に於て製造され1949年(昭和24年)の10月当社が購入した優秀なタンデムローラーである。
そえ以来1970年(昭和45年)2月迄満20有余年の間「酒井の六トン」の愛称で親しまれ乍ら、東京都第三建設事務所路面補修工事を手初めに都内各建設事務所及び都内各区役所の道路工事にその能力を遺憾なく発揮し1970年(昭和45年)2月練馬区豊玉道路維持工事を最後の花道にして惜しまれつつ引退した。「酒井の六トン」は共立土木㈱の発展の歴史と共に文字通り苦楽の道を歩んで来たものでその功績をたたえこの地にその雄姿を永久に保存するものである。
 昭和45年(1970)2月15日
 共立土木株式会社創立満20周年を記念して
 取締役社長 遠藤 寛

 


所在地 練馬区豊玉北1-7

 このお社は林稲荷神社とよばれています。このあたりは江戸から明治時代にかけて中新井村北於林と云われていました。「於林(おはやし)」とは、「御林(おはやし)」すなわち、江戸時代幕府要人が鷹狩や狩猟のために使用した林のことです。これが林稲荷神社の名の由来です。江古田川(旧中新井川)の南の中野区江古田3丁目にあった旧国立中野療養所の所も御林野であり、その東側にある東福寺には、将軍や御三卿(清水、一橋、田安家)の殿様が狩りに来たときに休息所とした御膳所がありました。
 神社の創建について、昭和15年(1940)に旧中新井1丁目町会(現在の豊玉第一町会)の方が著した林稲荷神社縁起には、およそ次のように記されております。
 「ある年干ばつがあり、農作物が収穫できなくなったため、少なからぬ村民たちが食糧を買うためのお金を得ようと、お林の木を伐って売り始めました。これを見て困ったのは、お上からこの林の管理を任せられていた村人、仁左衛門です。同じ村人のやることであるし、木を伐って売らねばならない事情を理解できるからです。すっかり困り果てて悩んでいたところ、ある晩、夢枕に稲荷大明神(宇気母知命)が二匹の白狐をつれて現れ、『この干ばつに苦しむのはこの地に良い水源が無いことである。この丘の崖下を浚い、数町北にある窪地を掘れば水が沢山得られるであろう』と告げられ、汗をびっしょりかいて夢から覚めました。これは不思議なことと思い、朝になってお林の中を探し回ったら、狐の棲家と思われる穴がみつかり、その部分だけ少し開けた穴の前の土地は、掃き清められたように平らで、そこには2、3匹の狐の足跡がありました。あれは正夢であったか、と驚いて、このことを百姓頭三郎左衛門に話し、村民7名と共に神のお告げのあった場所に井戸を掘りました。すると清水がこんこんと湧き出し、田畑が潤って農作物の収穫が得られようになり、木を伐る必要がなくなりました。村民たちが稲荷大明神に感謝の気持を込めて創建したのがこの社の起源であります。」
 このことがあったのは、寛文年間(1661~1673)の頃であったと言い伝えられていたそうですが、仁左衛門家が、その本家の平左衛門家から分家したのは、これより少し時代が下がるので、この出来事は寛文より少し後のことと考えられます。
 林稲荷神社と村民とを深く結びつける関係は、その後再び明治の世になって現れます。江戸幕府が大政奉還して瓦解し、お林が時の政府から林稲荷神社のある所を含めて、名主の岩堀伝内に払い下げられ、社殿が壊されることになりました。人々が社の無くなることを憂いていたところ、子孫の矢島三郎左衛門や矢島仁左衛門は、屋敷の周りで、悲しげに鳴く狐の声を耳にします。それを聞いて二人は、これは稲荷社の保存を狐が訴えているのだ、と思いました。そこで、昔、干ばつの時、稲荷大明神のお告げで助けられた言い伝えを思い出して、村民たちと相談し、二人を含め二十五人の者が境内社地を買い戻し、社も新しく造り替えてお祀りすることにしました。時に明治12年(1879)のことであります。
 以来、明治、大正、昭和と、林稲荷神社は旧中新井村住民を中心に維持管理されてきました。しかし、土地の区画整理(昭和10年〔1935〕~昭和15年〔1940〕)があって住民の家々と社が、交通量の多い目白通り(十三間道路)で分断されてしまったことや、第二次世界大戦(昭和16年〔1941〕~昭和20年〔1945〕)とその後の混乱期などのあおりを受けて、古くから社と縁のあった一部の子孫がこの地を離れてしまったことなどのため、林稲荷神社はだんだんと人々から忘れ去られてしまいました。社殿や鳥居などは朽ち果て、境内も荒れ果てたままの状態がずっと続いておりました。
 さいきんになって、旧中新井村東部地区(現在の豊玉上1丁目、豊玉北1、2丁目)の住民の人たちは、稲荷社の土地の歴史に根づいた由緒を知り、ここに林稲荷神社復興世話人会を組織して、この度、59年ぶりに境内を整備し、鳥居や社殿、庚申堂、水屋、狐像などを新たに造り、社を末永くお祀りしていくこととなりました。
 旧村民の間に伝えられた話は、郷土の歴史に関する理解を深める一助になると共に、林の木の保全の問題や、人と野生動物(狐)との交流など、現代人と自然との関係、環境問題を改めて考えさせる機会を持つことにもつながると思います。そのような気持を籠めてお参り頂けたら幸いです。
 平成11年(1999)2月初午 
 茨城大学名誉教授 矢島英雄 記
 林稲荷神社世話人会



 境内には『庚申塔』があります。


所在地 練馬区豊玉北1-7 (林稲荷神社)

練馬区登録有形民俗文化財
 林稲荷神社の庚申塔



 鳥居脇の祠に納まる中央の角柱型石造物は、寛文3年(1663)に建てられた庚申塔です。三猿や鶏の浮き彫りは精巧に表現されています。区内では古いもので、江戸初期の庚申塔の典型を示しています。
 平成17年(2005)3月 練馬区教育委員会


所在地 練馬区練馬1-44-10

時宗
 慈光山 阿弥陀寺



 寺伝によると正平・文和の頃(1355年頃)、遊行八代渡船上人巡化の頃から時衆集団が生まれた。また江戸時代頃より時宗・品川長徳寺の境外仏堂(説教所)としてこの付近に信徒を集めていたことは記録によって明らかにされています。
 本尊は阿弥陀如来(木造)で、明治の廃仏毀釈の際、近くの白山神社に祀られていた観音菩薩(青銅製)を脇侍仏としました。
 また、寺宝として弘安3年(1280)銘の弥陀一尊板碑が保存されております。この板碑は区内で二番目に古いものです。
 境内には享保14年(1729)の銘のある地蔵尊が安置されており、日を限って祈願すると願い事がかなえられるということから「ひぎり地蔵」と呼ばれています。眼病の治癒に霊験があるといわれ、現在もなお進行が盛んです。
 昭和57年(1982)3月 練馬区教育委員会


所在地 練馬区練馬4-2

  練馬白山神社





 境内には『練馬白山神社の大ケヤキ』があります。

 

                                     下段の大ケヤキ

所在地 練馬区練馬4-2 (練馬白山神社)

国指定天然記念物
練馬区登録天然記念物
 練馬白山神社の大ケヤキ

 白山神社は、練馬宿の氏神で伊邪那美命をまつり、平安時代に建てられたと伝えられています。
 社の境内の大欅は、現在は2本になってしまいましたが、いい伝えによると永保3年(1083)に、源義家が奥州征伐に下る時、この社に戦勝を祈願して、奉納した苗の一部であると伝えられています。
 1本は目通り10メートルほど、今1本は7メートル余りあり、高さはともに、25メートルぐらいで、樹齢7、800年を経ているといわれます(林学博士 本多静六氏の鑑定)。昭和15年(1940)には天然記念物として国の指定を受けました。
 なおこの付近から、弘安4年(1281)などの板碑が多く発掘されていることによって、鎌倉時代には、この神社の周辺に、集落が発達していたことが考えられます。
 平成元年(1989)3月 練馬区教育委員会


                                           下段の大ケヤキ

 石段上のケヤキと同じく、源義家が奉納したと伝えられる由緒があることから指定されました。
 樹の高さ 19m  幹の周囲の長さ 8m



                         上段の大ケヤキ

天然記念物指定時の大きさは「目通三丈五尺三寸」(10.7m)根廻六丈八尺六寸(20.8m)高さ八十尺(24.2m)」の巨木でした。古木で根元に大きなコブのある独特の風格を有し、源義家が奉納したと伝えられています。
 樹の高さ 14m  幹の周囲の長さ 7.2m


 
                                      上段の大ケヤキ


所在地 練馬区練馬4

  田島山十一ヶ寺
 
十一ヶ寺とは、仁寿院迎接院本性院得生院九品院林宗院称名院
受用院、假宿院(仮宿院)、宗周院快楽院の十一寺院の俗称で、もとは誓願寺(浄土宗、現在は府中市の多磨霊園正門近くにある)の塔頭寺院でした。
 誓願寺は江戸時代初めに小田原から江戸神田に移り、さらに明暦3年(1657)の振袖火事後、浅草田島町に移転しました。この頃は幕府から朱印三百石を与えられ、檀家には豪商も多く十六院もの塔頭寺院を持つ大きな寺でした。明治以降、各塔頭寺院は本坊の誓願寺から独立し、大正12年(1923)の関東大震災後に十一の塔頭寺院がここに移転しました。
 墓地には、本草学者として名高い小野蘭山や、書道家として篆刻の名人として有名な池永道雲の墓をはじめ、札差として権勢を誇った青地善春一族あるいは名優のきこえ高い初代沢村宗十郎らの名墓があります。
 平成9年(1997)3月 練馬区教育委員会




仁寿院
 仁寿院墓地内には『千葉周作墓』があります。

迎接院
 迎接院墓地内には『小野蘭山墓』があります。

本性院

得生院

九品院
 九品院境内には『蕎麦喰地蔵』があります。

快楽院

宗周院

仮宿院

受用院
 受用院墓地内には『池永道雲墓』、『澤村宗十郎(初代)墓』、『澤村宗十郎(3代)墓(沢村田之助)』、『澤村宗十郎(5代)墓』、『澤村宗十郎(7代)墓』、『澤村宗十郎(8代)墓』があります。

称名院

林宗院
 林宗院墓地内には『岡部覚弥墓』、『土屋安親墓』、『岸本由豆流墓』があります。

 


所在地 練馬区練馬4-25-9 (田島山十一ヶ寺)


 仁寿院墓地内には『千葉周作墓』があります。


所在地 練馬区練馬4-26-17  (田島山十一ヶ寺)


  
  受用院


 受用院墓地内には『池永道雲墓』、『澤村宗十郎(初代)墓』、『澤村宗十郎(3代)墓(沢村田之助)』、『澤村宗十郎(5代)墓』、『澤村宗十郎(7代)墓』、『澤村宗十郎(8代)墓』があります。


所在地 練馬区練馬4-27 (田島山十一ヶ寺迎接院墓地

東京都指定有形文化財
     昭和4年(1992)5月指定
練馬区登録有形文化財
     平成元年(1989)3月登録
 小野蘭山墓

 江戸時代中期の本草学者。本姓は佐伯氏、名は職博、字は以文、通称は喜内、号を蘭山または朽匏子という。享保14年(1729)京都に生まれた。延享元年(1744)松岡恕庵について本草学を学んだ。本草学は、中国で発達し、日本では江戸時代に最も盛んになった学問である。薬草をはじめとする薬物研究にとどまらず博物学の色彩が濃い。25歳のとき京都丸太町近くに学塾衆芳軒を開き本草学を講じた。寛政11年(1799)71歳のとき江戸に移り、幕府の医学館で本草学を講じた。また、幕命により享和元年(1801)から文化2年(1805)にかけて採薬のため諸国を巡り、それらの結果を採薬記に纏めている。享和3年(1803)に上梓された『本草綱目啓蒙』は、日本における最大の本草文献であり、後の博物学の発達にも大きな影響を与えた。また方言資料としても貴重である。文化7年(1810)正月27日82歳で没した。墓所は浅草誓願寺の塔頭迎接院にあったが、震災後の区画整理により改葬され現在地に移転した。
 平成21年(2009)3月 練馬区教育委員会



 小野家累代のお墓は 蘭山墓を残して 諸霊は浄土宗田島山誓願寺塔頭 迎接院の納骨堂へ合祀いたしました
 小野蘭山は 享保14年(1729)8月 京都に生まれ松岡恕庵に師事し本草学を修めました
宝暦3年(1753) 25歳の時私塾衆芳軒を開き 以後46年間本草を考究し 多くの医者や本草家を輩出しました

 寛政11年(1799)3月幕命に依り 71歳にして江戸に下り 神田佐久町の幕府医学館に於いて 本草学の講義を行い また数次に亘る採薬を行いました
 そして 享和3年(1803)には「本草綱目啓蒙ほんぞうこうもくけいもう」48巻の初版本を刊行致しました
その後は蘭山の孫職孝もとたか(蕙畝けいほ) その子職實もとみち(二代蕙畝けいほ) 及び職實の子 職愨もとよし(薫山くんざん)の3人の後継者を得て家学を究め我国の自然科学の礎となりました

小野蘭山は 文化7年(1810)正月 病を得て幕府医学館の官舎で82年の生涯を閉じました
 
 茲に 墓石を記念碑として保存すると共にその業績を永く顕彰致します

 平成18年(2006)3月 
 浄土宗 迎接院第十八世住職 藤木雅雄
       小野家第八代 小野強 


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